服部正作品演奏会ご報告(青葉マンドリン室内楽団)

以前このHPよりご紹介した演奏会で「青葉マンドリン室内楽団・マンドリンジョイントリサイタル」につきまして、先日東京での演奏会にお邪魔してきました。
本演奏会は5月末から主宰者である肝付兼美氏の運営しているマンドリン教室が活動している「函館」「札幌」で行われ、そして最後に「東京・音楽の友ホール」にて開かれました。

正直服部正の作品だけで1つのコンサートをやって頂くことに対し多大なる敬意を表すとともに、本当にもつのかなという不安も正直な所持ち合わせていましたが、演奏された皆様の素晴らしい演奏でとても良いコンサートになりました。

演奏していただいた曲は以下の通りです。

・荒城の月を主題とする二つのマンドリンのための変奏曲
・モーツァルト「トルコ行進曲」(服部正編)
・海の少女(ピアノ伴奏編)
・コズマ ロマンス(服部正編)
・リュートのための「荒城の月」変奏曲
・モーツァルト「キラキラ星変奏曲」(服部正編)
・二つのマンドリンとピアノのための協奏曲

最後の「二つのマンドリンとピアノのための協奏曲」はあまり演奏されることもなく、私も生演奏で聴くのは初めてだったので大変貴重なコンサートとなりました。

 

メンバーは肝付兼美様、田中昌江様、田本美子様(それぞれマンドリン系)呉信樹様(ピアノ)の4人が曲によっていろいろアンサンブルを入れ替えながら、服部正の作品を丁寧に演奏していただきました。
アンコールで「服部正の最も有名な曲」と紹介されて、何が出てくるのだろうと思っていたら「ラジオ体操第一」というちょっと洒落た演出も有り、最後は私も気に入っている「鷺の歌」で締めくくって頂きました。
こうやって服部正の作品を音として具現化していただき、皆様にご披露していただけることは大変嬉しく、また演奏そのものも非常に分かりやすく心地よいものになっていた事が来場の皆様にもお分かりいただけたのではと感謝しており、東京だけでなく北海道でも好評だったとの事、当館としても大変有難く存じます。

関係の皆様に厚く御礼を申し上げるとともに、今後も益々のご発展をお祈りしたいと存じます。ありがとうございました。

 

謎の物語音楽②「Mr.T’s story」

前回の「瓊奴物語」に比べれば実に可愛らしい謎の音楽です。

NHKの袋に入っていた中にこの「Mr.T’s story」の譜面はありました。

恐らくNHKから依頼された何らかの短編ドラマか何かの番組の音楽のスコアと思われます。
珍しく譜面を横長につかっています。
その譜面の最初のページの右上に鉛筆で
「Mr.Tの可哀そうな物語」と書かれています。

普通は雑然と譜面が入っているのですが、この「Mr.T」は厚めの紙による表紙が付いており、しかもイラストも入っています。
譜面の状態や筆跡を考えると、やはり昭和30年代前半前後の作品ではと思われます。
譜面から想像するに、ごく一般的なラジオドラマ音楽と思われ、全体で音楽の部分で10~15分程度かと思います。

一度お邪魔したNHK放送博物館でも調べてみましたが、やはり連続物でないのでこの作品の履歴については調べきれませんでした。

そして「謎」です。

この「Mr.T」とは誰なのか?

譜面のあちこちに鉛筆でストーリーのポイントの走り書きが散見されました。
例えば「恋をした」「邪魔者は倒せ」「Mr.Tは憂うつ」、というような物で、何となくこのMr.Tという主人公の哀れな悲恋物語という事も想定されます。

そしてもう一つの謎は「この絵を誰がなぜ書いたのか?」です。

服部正の作品に絵が描かれているのは戦前の作品に多少ありましたが、戦後の作品にはあまり見受けられません。戦前の作品も「服部正の直筆による絵」とは思えない精巧なデッサンだったりしているので、誰かに書いて頂いたのではと思いますが、この絵もそうだとしたら、どのような経緯で書かれたかちょっと気になります。
「気になる」と言うと、この絵の主人公と思われる「Mr.T」、どことなく作曲者の風貌に似てなくもないような気が、、、。(眼鏡をかけてる姿等)
「T」は「正」のT?
こんな想像をしていると、ちょっと面白くなってしまう作品です。

 

 

 

謎の物語音楽①「剪刀余話 瓊奴物語」

服部正の残した譜面に「謎」を秘めた曲がいくつかありました。
その中から2つご紹介します。
今回はその1として「剪刀余話」の中の「瓊奴物語」という物です。
ちなみに「せんとうよわ」「けいどものがたり」と読みます。

この「剪刀」というお話は中国の「明」の時代の「神怪説話」の一つで、瞿佑(くゆう)という作家が「新話」を書き、それに続いて李昌祺(りしょうき)が「余話」を書いたとの事です。どちらも西暦1400年頃に活躍していました。そして「瓊奴物語」はその「余話」の中の1つの物語でした。(服部正の譜面では「新話」と書いてありますが、図書館で調べたところ「余話」の間違いだったようです。)細かい話はさておき、作られた曲は歌(ソロ、合唱)と語り手が入るそこそこの長さの作品です。
そもそもこの話は瓊奴という女性の悲恋物語であり、戦後服部作品で一躍有名になった「人魚姫」「かぐや姫」等のシナリオとも類似しており、服部正自らこのような中国古代文学を探したとはあまり思えないので、どなたかが推薦されたのではと思われます。
譜面も1950年代前後と思われる保管状態、筆跡でした。

ここで「謎」が出てきます。

「これはいったいどこの何のための作品なのか?」です。
譜面を見ていくと、語り手の原稿がスコアのいたるところに貼ってあり、そこに「三国」と記されています。(国と言う字は略して口と書かれた場合も当時は多かったようです。)
恐らく三国一朗氏の事であり、この流れから言うと「広場のコンサート」で使われた可能性が高いと思われますが、少なくとも第6回~第10回のプログラムには記載されていません。1~5回にやられた可能性もあるものの、これだけの作品であれば演奏会履歴や著書にも登場するのですが、その痕跡が残されていません。
実はオーケストラのパート譜も綺麗に残っておりますが、どうも演奏された形跡があまりありません。弦楽器の第一プルト(一番前の席の人)譜にはボウイングのアップダウンの鉛筆書きが数カ所残っていますがそれ以外にはどの譜にも書き込みがありません。練習前の準備はしていたが実際に練習すらされなかった、と想像されます。

そうなると想定できる事は次の3つと思われます。

1.「広場のコンサート」の第11回目に予定すべく譜面は作ったが、「広場のコンサート」そのものが中断されたため日の目を見ずに終わった。
2.第1~10回の「広場」でやるべく作ったが、何らかの理由で辞めた。
3.「広場」とは別の機会でやる事になって用意したが、やはり何らかの理由で中止になった。

どれも眉唾ですが、何となく1番の信憑性が高いような気がしています。

多分オーケストラ的に一度も音になっていないと思われ、もしその気になったらパソコン音源でトライしてみても、と考えていますが、しかしながらよくもまあこんな中国古代文学を引っ張り出してパート譜まで作って、そして演奏されずに終わったものも綺麗に残している、というのも「整理下手」「断捨離下手」の服部正らしい一面が出ているのではないでしょうか。

埼玉県立秩父農工科学高等学校校歌自筆譜の寄贈

6月とはいえ少々暑い朝を迎え、埼玉県の秩父農工科学高等学校にお邪魔することにしました。西武線で秩父まで一気に行けるのですが、池袋に出るまでにラッシュに出くわし、ここでエネルギーを半分ぐらい費やしてしまいました、、、。
西武秩父駅にて副校長様にお迎え頂き、一路高等学校へ。
この高校はNHKニュースの関東地方のローカル話題提供で何回か拝見し、そのたびに「服部正の作った校歌を歌っていただいている学校が頑張っているな。」と感心していたので、本日お邪魔するのを楽しみにしていました。
校長様にもお目通りさせて頂き、まずは校歌の直筆譜面を寄贈、副校長、音楽の教諭の皆様も同席頂きました。
実はこの高等学校、校歌を作った時点(昭和44年)では「秩父農工高等学校」だったのですが、様々な学問領域に拡大したため「科学」の文字を校名に追加して今日に至っています。
校歌の歌詞は藤浦洸先生がお作り頂きましたが、その「科学」を歌詞に追加しても違和感がないので今日までこの校歌を歌い続けて頂いているとの事で、大変恐縮してしまいました。

 

その後副校長様に学内をご案内頂きましたが、やはり「農工科学」という分野なので教室等も実に特徴的で「旋盤」や「溶接」、「電子機器」「ロボット」から「自動車」まで工業にまつわる様々なアイテムが各教室に置かれており、また追加された「科学」の分野でも「調理」の教室では、生徒たちが一生懸命「調理実習」している現場も遠目から拝見出来ました。もちろんその調理で使う食材も「農」で培われた野菜や果物等をふんだんに使ったりしているので、徹底的な手作り料理を目の前に見る事ができ感動しました。
一番素晴らしいと思ったのはどの生徒の皆さんも、一生懸命授業を受けている時の眼差しが実にピュアであり、またご指導されている教師の皆様も明るく前向きな姿勢で生徒たちに取り組んでおり、これからの「モノづくり日本」の屋台骨を担う若きパワーが生き生きと育っていく現場を目の当たりにした事です。この学校の卒業生がこれからどんどん活躍してくれると、本当に頼もしい日本になっていくに違いありません。

これからも益々ご発展をお祈りするとともに、技術立国の日本を支えていく事を期待してやみません。そして末永く校歌も歌い続けて頂ければとても嬉しいです。
秩父農工科学高等学校の皆様、ありがとうございました。

「消滅した高校」の校歌、でも卒業生は覚えている?!

以前このページで合併吸収等で消滅した企業の社歌についていくつかご紹介しました。今回は「今は無き」高等学校の校歌をいくつかご紹介したいと思います。

服部正は夥しい校歌、社歌を作っていましたが、その大半が昭和30年代前後から昭和50年代にかけての高度成長期の時代でした。
今回ご紹介するのは次の4校です。

まず兵庫県立大屋高等学校です。
この高校は昭和24年(1949年)兵庫県立八鹿高等学校大屋分校(定時制課程農業科1学級)として開校し、昭和50年4月に大屋高等学校と改名、そして昭和58年に廃止され大屋分校に戻り、結局最終的に平成22年にこの「大屋校」は閉校という経緯で消滅してしまいましたが、まだ兵庫県立八鹿高等学校のHPには当時の校歌が掲載されております。
校歌の譜面の表紙には「50.3.17」と書かれており、恐らく昭和50年3月17日(何と服部正の誕生日!)に作曲されたようです。上記改名された時期と符合していますね。

次にご紹介するのは新潟県立新潟女子高等学校です。
この学校は1963年に設立され、1974年に男女共学となり新潟江南高等学校と改変され、それに合わせて校歌も改訂されたようです。
歌詞が何と「サトー・ハチロー」氏であり、当時とすれば女子高としても「洒落た」歌詞を求めて同氏に依頼されたのかもしれません。譜面等にも記載がありませんが、恐らく開校時期の1963年前後に作曲されたものと想定しております。

続いてご紹介するのは東京のど真ん中、上野にあった東京都立上野忍岡高等学校です。場所的に言うと入谷駅のそばで、どうも現在の下谷警察署のあたりだそうです。現在は浅草橋に「都立忍岡高等学校」として残っておりますが、その高校のHPでは当時の上野忍岡高等学校としての沿革等の記載があまり掲載されておりません。2008年に閉校したとの記載はありますが、そもそもの開校時期や合併等の時系列データがあまり明確に出ておりません。
保存されている校歌譜面もそこそこ古いので、やはり昭和30年代前半頃の作曲では、と思われます。

最後にご紹介するのは四国徳島県の鳴門工業高等学校です。
「おっ、その高校聞いたことがある」と思われる方も多いかもしれません。それもそのはず、2002年の春の選抜高校野球で「準優勝」に輝いた高校であり、同校の出身者でプロ野球で活躍された方もいらっしゃいます。(現野球解説者で元ロッテの「里崎選手」もご出身です)
服部正の作曲した校歌で全国放送で流れているのは現在では仙台育英高校が最も有名ですが、以前はこの鳴門工業も甲子園の常連組として大変頼もしい存在でした。
1962年に創設されましたが2012年に鳴門第一高等学校と合併して「鳴門渦潮高等学校」となり、あわせて校歌も改訂されました。旧校歌は創設時のものと考えられます。

どの学校も「少子高齢化」や「都市集中化」による生徒数の減少が、閉校や合併の大きな理由の一つと言われていますが、学校の校歌は会社の社歌と違って様々なイベントが在学中に定期的に行われる度に歌われるので、校歌を覚えていらっしゃるご卒業生、関係者の方々も少なくはないと思われます。
是非そういった関係の皆様も可能な限り思い出して頂けると幸いです。

自筆譜贈呈先が明確でないので、このページでまずはご紹介させて頂きました。

 

音楽家としての岐路に立った1936年自作リサイタル

2年前に当HPとして旧新響(現N響)と服部正の記事を載せました。
そこでも軽く触れましたが、1936年4月に服部正は自作リサイタルをこの旧新響の協力を得て開催致しました。
実はこのリサイタルがその後の服部正の作風を大きく変革させただけでなく、音楽家としての道を大きく変えてしまった事がこの2年間の分析で明確になりました。

まず、この日の演奏曲目をN響のHPから抜き出してきました。

読み取りにくいので再掲します。

1.「迦楼羅面」前奏曲(マンドリン作品よりオーケストラ編曲)
2.「シューベルティアーナ」(倉知緑郎作曲)
3.「微笑」 (ソプラノ:中村淑子)
4.「春と夏」(ソプラノ:中村淑子)
5.「旗に寄する三部作」(西風にひらめく旗、旗の子守歌、祭の旗)
6.「からたち」(テノール:太田黒養二)
7.「甃の上」 (テノール:太田黒養二)
8.「繪本街景色」(マンドリン作品よりオーケストラ編曲)(ソプラノ:中村淑子、ヴォーカル・フォア合唱団)

シューベルティアーナ以外はすべて服部正の自作ですが、この日のためにコンクールで2等を取った「西風にひらめく旗」に2曲を付け加えて三部作にした事、大がかりなマンドリン作品2曲をオーケストラ編曲した等、かなり気合を入れてこのリサイタルに臨んだのが事実です。

ところが服部正著の「広場に楽隊を鳴らそう」で、この演奏会の後にこのように思った事が書かれていました。

『今日のお客は、わたくしの個人的な関係で集まった人たちである。いわば「旦那の義太夫」を無理にきかされて、嫌な顔もできないというお客が、大部分である。もしこれが、まったくの「ふり」の客で、入場料をはらって、こういうものをきかされたら、どんな気持ちがするだろう。勿論、リサイタルというものは、個人芸の展覧会みたいなものであるから、そう面白いわけはない。しかし、それなら、わざわざこんなに大騒ぎをしてやる程の事もないではないか。これだけのことをするなら、もっとお客の喜ぶもの、楽しむものを書くべきである。』

結局この演奏会を最後に服部正は「リサイタル」を一切やる事がなくなり、そしてここに取り上げられた曲目についても服部正は積極的に世に出す事を辞めました。もちろんここに乗せられなかったそれまでの数多くの他の作品も以降の演奏会に取り上げられることが殆ど無くなってしまったのが実態です。コンクールで賞を取ったマンドリンの「叙情的組曲」、オーケストラの「西風にひらめく旗」も2度と耳にする事はなくなりました。
そして服部正の作風は一気に「明るく、分かりやすい楽しい音楽」へと変革していき、後のアンドレ・コステラネッツ氏との接点によりその作風が揺るぎないものになっていきました。

しかしながら、原曲がマンドリンであるためか「繪本街景色」と「迦楼羅面」はマンドリン演奏会で何回か取り上げられています。特に「迦楼羅面」は演奏者からの人気が比較的高く、実は服部正生前も慶應義塾マンドリンクラブの定期演奏会に是非やりたい、と当時現役の学生が提案したことが何回かあったようですが、服部正本人が上記の通り「自己否定をした作品」としての考えか気が進まず、結局本人指揮は2回実現しただけであったようで、あとは否決されました。

この8月に慶應義塾マンドリンクラブが200回定期演奏会をやることになり、OBである三田会マンドリンクラブがこの「迦楼羅面」を演奏する事になりましたが、こういった背景での演奏という事でお聞きになる方、演奏に参加される方もお感じ頂けると幸いです。

服部正の作品のコンサート等のご紹介(2018年度 第1報)

今年は服部正没後10年、生誕110年ですが、そういった意味も含めて演奏会で取り上げて頂く機会があり、現在分かっているものをご紹介いたします。

1.青葉マンドリン室内楽団 マンドリン・ジョイント・リサイタル

慶應義塾マンドリンクラブご出身である肝付兼美様率いる青葉マンドリン室内楽団にて下記の通り演奏会が催されますが、服部正の作品を中心にプログラムを組んで頂きました。
①5/31(木) 函館公演(七飯町文化スターホール 19:00~)
②6/2(土)  札幌公演(渡辺淳一文学館 15:00~)
③6/16(土) 東京公演(音楽の友ホール 14:30~)
曲目は「荒城の月を主題とする二つのマンドリンのための変奏曲」「海の少女」「二つのマンドリンとピアノのための協奏曲」等他多彩なプログラムとなっております。
問合せ先等は青葉マンドリン教室(http://www.aoba-mandolin.com/)にてお確かめください。本資料館でもチケット等ご要望があればお取次ぎ致しますので「お問合せ」よりご連絡下さい。

2.慶應義塾マンドリンクラブ第200回定期演奏会

毎年三田会マンドリンクラブが8月に定期演奏会をやっておりますが、今回は現役とのコラボ演奏会となり、ちょうど200回目の定期演奏会と重ね合わせて演奏する事になりました。(8月4日(土):東京オペラシティタケミツメモリアル)
三田会のステージにて服部正の「迦楼羅面」「イタリアン・ファンタジー」を演奏する予定になっております。これはまだ先になりますので、また6月以降に再度ご案内いたします。

3.その他

前回ご案内した「ひそねとまそたん」の第3回目がこの木曜日(4/26)に予定されており、そこで服部正作曲の「岐阜県民の歌」が数秒流されるとの事です。スタッフから第4回目にも流されることになったらしいとのご連絡を頂きました。
前回拝見いたしましたが、深夜12時にやるのはもったいないような素敵な番組で、どうしても深夜まで起きていられない方は是非ビデオ予約でもして頂ければと思います。(地上波デジタルなのでBS契約等なくても大丈夫です。)
詳しくは前回の投稿をご覧ください。

服部正作曲「岐阜県民の歌」がなんとアニメにも登場!

先日某大手エンターテインメント事業会社の方から連絡を頂き、現在企画推進中のアニメの中で少しだけ「岐阜県民の歌」を流すので了解を頂きたい、との連絡が突然入ってきました。
岐阜県さん側もご了解頂いているとの事なのでもちろん快諾しましたが、「アニメ」と「岐阜県民の歌」が何故繋がっているか当初は全くわからず興味津々でした。
どうもこのアニメの主人公の配属先が「航空自衛隊岐阜基地」という設定になっているらしく、その関係で「岐阜県民の歌」が浮上してきたようです。
そのアニメは「ひそねとまそたん」という番組で、4/12からTOKYO MX、BSフジ等で毎週木曜日の深夜24時に放映されるらしく、聞いている限りでは第3話にこの「岐阜県民の歌」が登場するらしいとの事です。

服部正は全国の自治体の歌もいくつか作っていますが、自治体同士の合併や様々な理由で存続している曲が少なくなっています。しかしながらこの「岐阜県民の歌」は今でもご愛用頂いているようで、JASRACの利用状況を見ても必ず毎回履歴が残っており大変ありがたい限りです。
ただ、残念ながら「自筆譜」が残ってなく作曲当時の「発表会」のパンフレット等が残っているだけなので、自筆譜贈呈のイベントが出来ず日頃のご愛顧の御礼のご挨拶も出来ていない状況で、大変恐縮しています。

県民の歌発表大会のパンフレット(1955年4月)

「アリチャン」「あひる陸戦隊」や「捨て猫トラちゃん」等戦前戦後のアニメの音楽を担当していた服部正の作品が奇しくも生誕110年の本年に現代の新しいアニメにほんの僅かでも登場するという事に大変びっくりしており、感謝している次第です。

皆様も是非ご覧になってはいかがでしょうか?

一応この「ひそねとまそたん」の公式HPにリンクを貼ってみましたので、ご参考までご覧ください。

服部正20代前半の写真発掘!

先日、残されていた書類の間に汚い茶色の紙が混ざっていました。それを取り出してみると、何と昭和3年~昭和7年の頃の服部正のスナップ写真が11枚貼り付けてありました。実に90年前の写真です。
自筆で「昭和×年、××才」と書いてあるのもありますが、どう考えても「昭和」と「歳」が正確に一致していないようにも考えられる部分もあり、状況を見る限り「昭和」記載の方が正しいようです。取り敢えず11枚全部ご紹介しましょう。

まず昭和3年と書かれた4枚です。

複数の人間が写っている写真は「眼鏡をかけた中央近辺にいる人間」を探してください。まだ若々しい大学生の風情が残っています。

次は昭和4年~6年にかけての4枚です。

少し上級生という風格が出てきたようです。集合写真は一番右端に佇んでいるのが服部正です。右端の昭和6年の卒業の年の写真は慶應の校舎をバックにしているので在学中のショットと思われます。

最後に昭和7年の3枚です。

この頃は卒業し会社も辞め、音楽家として必死に生き始めた時代であり、服部正としても何とかこの業界で活躍したいという気持ちが強く出ていた頃です。20代前半とはいえ多少「おっさん」ぽく写っているようにも見えますね。
左側2枚はともかく、人形と写っている右端の写真はいったい何を意図しているのか全く不明です(!?)。

まさにこれから音楽家になろうとしている過程の数年間の写真であり、撮影された時期が比較的明確になっているものとして貴重な写真と言えるかもしれません。

この写真は別途「画像集」にも後ほどアップ致します。

服部家のルーツ探訪(2)

前回の服部家のルーツ探訪にて、二代目廉平が財を成し「服部姓」を頂いた事をお話しました。
どれ位の成功かについても書状で服部正平が二代目の自宅の事について詳しく書かれています。
「記憶では間口が約十間、奥行き三十間、中庭があり離れの隠居亭があり、二十坪総二階の土蔵が二戸あって右には商品類、左には家具什器が収納されてあった。」
間口、奥行きで単純に算出すると約300坪、1,000㎡にもなり、地方都市ながらこれだけの規模の自宅兼店舗を構えるのはなかなか容易ではありません。
二代目廉平はこのように事業、商売では成功しましたが、残念ながら子供には恵まれませんでした。そこで廉平の妻の姪を養子として迎え、その婿に後を継がせる事にしましたが、ここでややこしくなるのが その婿(三代目)の名前も「廉平」と名乗っていました。

二代、三代の廉平の過去帳

この三代目「廉平」が実は服部家の命運を危うくした者で、二代目廉平と「月とスッポン」ほどの差が明確に出てしまいました。
財があるに任せて様々な事業を展開したもののことごとく失敗し、折角二代目が蓄えた財をほぼ失っただけでなく破産まで追い込まれた、との記述が書状に為されています。豪邸も三分の一程度まで縮小され、書状を記した服部正の父「服部正平」も何とか小学校は卒業したものの、上級学校に通わせるお金が無いため銀行の小僧に追いやられた、との事でした。(銀行は今でこそ就職でもレベルの高い金融機関ですが明治初期の頃はまだ仕事としてはそれほど高い評価を得てなかった業態と思われます。)

「三代目は会社を潰す」とはよく言われていますが、まさか自分の祖先が見事にそれに当たっていたとは驚きでした。

四代目となる服部正平はこの自分の境遇を自らの子孫に背負わせたくない、との気持ちが強かったため、こつこつと銀行員として働いて得たお金を遊興費等に一切使わず息子たちの教育のために貯めていました。
そこに生まれた五代目の「服部正」は、当初はテニスが好きな普通の子供で私立中学、大学に入ったまでは「服部正平」の思惑通りだったものの、ここで「音楽」との接点が非常に大きく育ってしまったために堅気のサラリーマンになりきれなかったのが、当時の服部正平としては計算違いで歯痒さを感じたかもしれません。

ここで過去のルーツをおさらいしますが、下記のようになります。

ご覧の通り、商売で成功した二代目「廉平」と三代目「廉平」の間で上図の点線の通り「血縁」(実線)が途切れてしまっています。(三代目の養子の「すう」は二代目廉平の妻の家系の姪にあたるため)
ここでもし二代目廉平に血のつながった子孫が家督を相続していたら、商売・実業の方に長けた家系となる可能性が高くなり「音楽家 服部正」が誕生していたかは疑問です。事業の失敗が一人の音楽家を生む事に繋がった、となるとそれはそれで「怪我の功名」とも言えるかもしれませんが。(これはあくまで「たら、れば」的な勝手な解釈ですが、、、)

服部家のルーツ探訪(1)