服部家のルーツ探訪(2)

前回の服部家のルーツ探訪にて、二代目廉平が財を成し「服部姓」を頂いた事をお話しました。
どれ位の成功かについても書状で服部正平が二代目の自宅の事について詳しく書かれています。
「記憶では間口が約十間、奥行き三十間、中庭があり離れの隠居亭があり、二十坪総二階の土蔵が二戸あって右には商品類、左には家具什器が収納されてあった。」
間口、奥行きで単純に算出すると約300坪、1,000㎡にもなり、地方都市ながらこれだけの規模の自宅兼店舗を構えるのはなかなか容易ではありません。
二代目廉平はこのように事業、商売では成功しましたが、残念ながら子供には恵まれませんでした。そこで廉平の妻の姪を養子として迎え、その婿に後を継がせる事にしましたが、ここでややこしくなるのが その婿(三代目)の名前も「廉平」と名乗っていました。

二代、三代の廉平の過去帳

この三代目「廉平」が実は服部家の命運を危うくした者で、二代目廉平と「月とスッポン」ほどの差が明確に出てしまいました。
財があるに任せて様々な事業を展開したもののことごとく失敗し、折角二代目が蓄えた財をほぼ失っただけでなく破産まで追い込まれた、との記述が書状に為されています。豪邸も三分の一程度まで縮小され、書状を記した服部正の父「服部正平」も何とか小学校は卒業したものの、上級学校に通わせるお金が無いため銀行の小僧に追いやられた、との事でした。(銀行は今でこそ就職でもレベルの高い金融機関ですが明治初期の頃はまだ仕事としてはそれほど高い評価を得てなかった業態と思われます。)

「三代目は会社を潰す」とはよく言われていますが、まさか自分の祖先が見事にそれに当たっていたとは驚きでした。

四代目となる服部正平はこの自分の境遇を自らの子孫に背負わせたくない、との気持ちが強かったため、こつこつと銀行員として働いて得たお金を遊興費等に一切使わず息子たちの教育のために貯めていました。
そこに生まれた五代目の「服部正」は、当初はテニスが好きな普通の子供で私立中学、大学に入ったまでは「服部正平」の思惑通りだったものの、ここで「音楽」との接点が非常に大きく育ってしまったために堅気のサラリーマンになりきれなかったのが、当時の服部正平としては計算違いで歯痒さを感じたかもしれません。

ここで過去のルーツをおさらいしますが、下記のようになります。

ご覧の通り、商売で成功した二代目「廉平」と三代目「廉平」の間で上図の点線の通り「血縁」(実線)が途切れてしまっています。(三代目の養子の「すう」は二代目廉平の妻の家系の姪にあたるため)
ここでもし二代目廉平に血のつながった子孫が家督を相続していたら、商売・実業の方に長けた家系となる可能性が高くなり「音楽家 服部正」が誕生していたかは疑問です。事業の失敗が一人の音楽家を生む事に繋がった、となるとそれはそれで「怪我の功名」とも言えるかもしれませんが。(これはあくまで「たら、れば」的な勝手な解釈ですが、、、)

服部家のルーツ探訪(1)

祝!誕生日 服部家のルーツ探訪(1)

本日3月17日は服部正の誕生日です。
1908年生まれなのでちょうど110回目の誕生日を迎えました。

今回誕生日にちなみ、「服部家のルーツ」を探訪してみようと思います。
ちょっと歴史が好きな方にもお楽しみ頂けるようにと思っております。

まず、服部家のルーツを刻んでいる資料が、実は戦中の東京大空襲により焼失してしまった事が判明しており、その消失の経緯も含めた「服部家の祖先」について服部正の父「服部正平」が戦後に書き直した過去帳含め書状が見つかりました。
服部正平の直筆はかなり難読であり、判読不明の部分も多々ありますが、何となく前後関係等でつまびらかになったお話をご覧ください。


服部正平が復元した過去帳とそれに関する書状

服部家のルーツは、そもそも江戸時代に遡ります。
江戸時代初期、現三重県の伊賀地方で「柿原勘太郎」という白米商をしていた一族がおり、当時の有名な大名の「藤堂高虎」が徳川幕府より増封を受けた際に伊賀だけでは間に合わず伊勢の津に進出する事になり、その際に城下町を形成すべく伊賀国より大挙して津に移住した中にこの「勘太郎」も含まれていました。
その子孫に「傳八」という者がおり、それが分家して津の萬町に百姓向けの雑貨商を営む事になりました。当時は百姓向けの茶碗等を売っていたそうで「茶碗屋傳八」と呼ばれていたそうでした。この「傳八」が服部家のルーツにあたるそうです。というのも、この傳八の息子で二代目にあたる「廉平」がなかなかの商売上手で様々な事業を起こし米相場にも手を出し巨万の富を築き上げたそうで、時の11代津藩主藤堂高猷がどうしてもお金が必要になった時に所領内の富豪だけでは間に合わずこの廉平にも声がかかったそうです。そして「金子御用達」という看板、「苗字帯刀」を許され「服部」の名を頂戴したとの事です。
「服部」という名は伊賀上野地区に町名としてだけでなく、町を流れる川の名前も「服部川」として現在も残っており、伊賀地区のシンボル的名前の一つと言われています。
一方で歴代津藩主の系譜を見ると、この11代津藩主高猷の時(1860年前後)に津地方には「凶作」「地震」等の発生により一時期212万両とも言われる借金を藩として抱えていたそうであり、お金が必要になった背景、時期が符合しています。
ここで「服部家」が誕生した事になります。残念ながら当時は「歌舞音曲」の類は殆ど関係していなかったようです。
過去帳によると初代「傳八」の享年は文久3年(1863年)、二代「廉平」の享年は明治12年(1879年)でした。

次回はこの廉平の子孫(三代から五代目にあたる服部正まで)のお話を続けたいと思います。

(服部家のルーツ探訪(2))

服部正の居宅と地元貢献(東京 原宿)

服部正の父、服部正平は一時期渋谷区の「穏田」(現在の渋谷区神宮前)に住んでおり、服部正も最初の結婚をするまで同居していました。
2回目の結婚で服部冨士子との新居を、その穏田から近い原宿一丁目の戦後の区画整理で出来た小さな土地を購入、建築しました。
新築時の写真が見つかりましたが、外側からも分かる「螺旋階段」を有したかなり当時としてはハイカラな一戸建てでした。(本人も写っています!)
ただ、誰が建築デザインしたのかは不明です。

今でこそ「原宿」と言えば「そんなとこに一軒家があり人が住んでいるのか?」と思われるぐらい若者の街として大変繁栄している所ですが、この写真を見ても分かるとおり当時は「かなり素朴で周囲にも何もない街並み」で静かな所でした。すぐ近くには今は暗渠となっている渋谷川も流れていました。
結局1954年頃から亡くなる2008年まで50年以上ここに住み続けましたが、新築当時は青山や内幸町等の放送局、スタジオなどの場所への移動もかなり至便で多忙な服部正にとっては非常に良いロケーションでした。

長く住んでいると地元とのお付き合いもいろいろ出てきますが、実はこのような譜面が残っていました。

 

原宿警察署署歌と原宿少年少女合唱団団歌の譜面

まず原宿警察署の方は恐らく1960年代以降の作曲と思われます。当時の原宿警察署は今の副都心線の北参道駅の近くにありましたが、やはり時々不審者が自宅の前をうろつくような恐れもあったため原宿署にはそれなりにお世話になっていたと覚えています。(「お世話になった」のは決して「悪い事」の方ではないので念のため!)そこで署歌を作ろうという事で服部正が作ったと思われます。
また「原宿少年少女合唱団」は1979年に発足したとの事ですが、その時に団の歌を作っただけでなく、その合唱団の活動にもいろいろとお手伝いをしたと覚えています。写真が見つかり、これは原宿の教会で服部正が合唱団の指揮をしている場面ですが、こうやって地元の様々なところでも何らかの貢献をさせて頂いた事が分かります。

服部正の「序曲」へのこだわり【クラプロ】

青響でも広場でもグレースノーツでも服部正は演奏会に「序曲」を多用していましたが、あまねく広く曲目を演奏する、という事でもなく、結構こだわりがあったようです。
というのも古今の名序曲と呼ばれている曲目でもなかなか演奏しないもの、逆に「こんな曲あったの?」的な選曲をしていたようです。
有名なナンバーで服部正が好んで演奏していたのは「グリンカ『ルスランとリュドミラ』序曲」や以前ご紹介した「メンデルスゾーン『フィンガルの洞窟』序曲」でした。また意外と演奏されないのが「ベートーヴェン」や「ワーグナー」といったコテコテのドイツもの、「ヴェルディ」や「ウェーバー」といったロマン派オペラ多作の作曲家のナンバーがプログラムに載る機会はそれほど多くなかったようでした。
かわったところでは「チマローザ『秘密の結婚』序曲」、「エロール『ザンパ』序曲」で、これはマンドリン合奏版として慶應マンドリンクラブでもよく演奏していた事からもうかがえると思います。そして「グルック・『アウリスのイフィゲニア』序曲」はグレースノーツの演奏会で私も聞きましたが、結構良かった演奏でした。
実はこの作品、「ワーグナー編曲版」が一般的で様々な録音も残されているのですが、この時服部正は「モーツァルト編曲版」を使い、ここでもワーグナー色を避けた服部正のこだわりがあったように思えます。
服部正の所有していた古いスコアにもこの両方の編曲版の楽譜が収められていました。


グルック「アウリスのイフィゲニー」序曲スコア。恐らく戦前に入手と思われます。


左が「グレースノーツ」で使ったモーツァルト版、右は一般的のワーグナー版

やはりワーグナー版は比較的荘重な響きの音楽になっているのに対し、モーツァルト版は軽快で最後まで明るく終わる、といった服部正がいかにも好きそうなアレンジでした。聴かれるお客様になるべく良い気分になってもらおう、という気持ちが強かったのではと思われます。

このモーツァルト版なかなか現在録音が見つからないのですが、もし聴く機会が出来たら是非お聴きになってみて下さい。

「広場のコンサート」時代は企業の広告宣伝にも出ていた服部正

広場のコンサートのプログラムを整理していたら、ちょっと気になるページが見つかりました。
というのも、演奏会に配られるプログラムにはつきものの広告宣伝のページが「広場」のプログラムにも当然載っていましたが、そこに「服部正」が登場しているのです。

   
パイロット万年筆の方は譜面を書いている姿なので実に的を得ているのですが、武田薬品の「心を静める」鎮静剤(?)については何故服部正の指揮姿なのかちょっと考えこんでしまいました。「音楽を聴く」事が心を静めるという事だと思いますが、それにしても当時(昭和30年代前半)の広告宣伝が今から見れば実に「愚直で真面目な」取り組みをされていた事が分かります。

当時ステレオ装置はまだ普及間もない頃で、テレビと同じく「高嶺の花」と言われた家電製品でしたが、そのステレオを作っていた山水(サンスイ)の広告音楽を作った事による関係なのか、「サンスイステレオ」のPRにも下の写真を使われていたようです。

右に座っているのは妻の服部冨士子と思われ、背景を見ても自宅の自室での撮影らしいですが、ステレオの上にちゃっかり慶應義塾マンドリンクラブのレコードを立てかけてあったりするのも何となく「手作り」のコマーシャル写真のイメージ満載で、当時の素朴な時代を感じる一コマでした。

ご来館者、のべ10,000人突破!!

当資料館開館より約3年近くが経ちましたが、本日来場者がのべ10,000人を超えました!
残念ながらどなたが一万人目かは不明ですが、とにかくご来館された皆様の一つ一つの蓄積の賜物です。ここに改めて感謝と御礼を申し上げたいと思います。

誠にありがとうございました。

今後も新しい企画、アイテムのご紹介等地道に内容の充実を図っていきたいと思います。今後ともご支援よろしくお願いいたします!!

「広場の歌姫」の歌声【クラプロ】

広場のコンサートでは必ず毎回当時の美人歌手を登場させていました。
例えば初回の第1回では名ソプラノの「伊藤京子」さん、第4回は「越路吹雪」さん、第6回は「ペギー・葉山」さん等、錚々たるメンバーです。
そして第7回、8回、10回には「中原美紗緒」さんに登場頂いていますが、服部正はこの中原さんを「広場」だけでなく様々な所で重用しており、かなり気に入って使っていたようです。

歌って頂く曲はオペラアリア等のクラシックナンバーと思いきや、そうでもない曲やシンフォニーの某楽章を歌版にしたもの等、当時としては「クラシックコンサート」としては全く異質なものでした。
伊藤京子さんには「コテコテのクラシック」でなくジェローム・カーンの「煙が目にしみる」を歌って頂いたとの事、逆に(前にもご紹介しましたが)越路吹雪さんにはチャイコフスキー交響曲第5番の第2楽章を、ペギー葉山さんにはサンサーンスの有名な「白鳥」に歌詞をつけて歌っていただきました。もちろんシュトラウス、レハールのオペレッタやビゼーのカルメンの有名アリアを歌っていただく事もお願いしていたようですが、極力親しみやすいプログラムにしようという気持ちが随所に現れた選曲だったようです。

このようにそれぞれの回の歌姫をメインにしながら支えるコーラスグループが言わずと知れた「ダークダックス」でした。
服部正のオリジナル作品でそもそもマンドリン合奏用に作られた「かぐや姫」をオーケストラ版に書き直し、中原美紗緒さんとダークダックスにて広場のコンサートで取り上げた事もありました。

考えてみれば服部正にとってコンサートでの「歌曲」というのは大変重要なアイテムであり、これは1936年の唯一の自己作品リサイタルの時に始まり青響、広場に引き継がれただけでなく、慶應義塾マンドリンクラブの定期演奏会や演奏旅行でも歌手が登場する場面が非常に多く、「歌」というジャンルが人を惹きつける何かがあったと思っていたようです。自身の傑作歌曲「野の羊」もそういった背景で生まれてきたのかもしれません。

 

オーケストラ定番組曲(ペールギュント等)【クラプロ】

服部正はクラシックを広めるために「名曲中の名曲」に絞って選曲をしていましたが、当然「服部正」の趣味・嗜好もかなり選曲に大きく影響していました。
中でも「定番」と言われているのが有名な「組曲」であり、気に入った曲を比較的繰り返し選曲しておりました。
実は現NHK交響楽団の前身である「新交響楽団」時代に「近衛秀麿」や「山田耕筰」といった著名指揮者がベートーヴェンやヴェルディ等の本格的作品を演奏している日とは別に、ポピュラー名曲の演奏会の指揮をまだ服部正が20代後半の頃に担当させて頂いた事もあり、そこでの経験もそれからの演奏活動に大きく役立ったようです。
青響の時代から積極的に取り上げられたのは「チャイコフスキー=くるみ割り人形組曲」や「グリーグ=ペールギュント組曲」「グノー=ファウストバレエ音楽」といったところです。「広場のコンサート」でも第7回にこの「ペールギュント」を取り上げておりました。

第7回広場のコンサートチラシ

ちなみにこの時取り上げていた「メンデルスゾーンのフィンガルの洞窟序曲」も服部正のお気に入りで、後の「グレースノーツ」でも当時の編成に合わせて編曲しなおして定期演奏会に登場していました。

他にも「広場」では第6回に「ドリーブ」の「シルヴィア」というバレエ組曲を取り上げております。前回にご紹介した「ウィンナワルツ」とともに服部正の演奏会の根幹を成すカテゴリーであり、聴き心地の良い曲をなるべく選びその組曲でも一部曲を組み替えたりしてなるべく皆さんが楽しめるような演奏会を徹底的に追求していたようです。
この7回でもペールギュントは第1組曲の最後の「山の魔王の殿堂」を外し、第2組曲の「アラビアの踊り」を入れています。
そういえば有名な「カルメン」や「アルルの女」は組曲としてはあまり過去実績が少なく、有名なカルメン前奏曲やアルルの女のファランドールのような「ドンチャン騒ぎ」的音楽は「聴き心地」が良くてもあまり服部正の好みとは若干異質だったのかもしれません。なのでペールギュントでも類似の「山の魔王」を外した可能性も否定できません。

慶應義塾マンドリンクラブの定期演奏会の選曲にもこの流れは影響しており、以降服部正のマンドリンオーケストラ編曲も徐々に増えていきました。

 

「サワコの朝」で小林亜星先生が服部正について語る!(予告)

先日当館にMBS毎日放送(TBS系列)のスタッフからお問合せを頂きました。
「サワコの朝」という阿川佐和子さんの番組でゲストに小林亜星先生をお招きしたところ、師である「服部正」について色々と語っていただいたので是非写真をお借りしたいとの事でした。
もちろん喜んでご協力させて頂きました。

小林先生は一昨年の「黒柳徹子のコドモノクニ」でも服部正を取り上げて頂いた時にガイド役をして頂き、過分なお言葉を頂戴しました。今回も「阿川佐和子さん」という大変「聞き上手」な方とのトークなのでどんなお話が出るのか楽しみです。

1月27日(土)午前7時30分からTBS系列で放送だとの事です。
前日あまり夜更かしをせずに是非拝見させて頂こうと思っておりますので、皆様も是非ご覧になってください。

ちなみに、この「サワコの朝」のHPをリンク致しました。

ウィンナワルツと服部正【クラプロ】

服部正が生涯を通じて最も多く取り上げた作曲家と言えば、間違いなく「ヨハン・シュトラウス」と言えます。
これはコンセール・ポピュレール(青響)、広場のコンサート、グレースノーツでの大事なレパートリーであり、また慶應義塾マンドリンクラブの演奏会でもたびたび取り上げておりました。

ワルツと言えば「美しく青きドナウ」は定演だけでなく演奏旅行の定番、「皇帝円舞曲」「ウィーンの森の物語」は何回も演奏され、「朝刊」「南国のバラ」や弟のヨゼフの「天体の音楽」等も積極的に選曲しておりました。またポルカは「雷鳴と稲妻」「狩」「トリッチ・トラッチ」やヨゼフの「とんぼ」「休暇旅行」等多岐に亘った選曲をしていました。他にもレハールやフランスのワルトトイフェル等のワルツも積極的に取り上げていました。
マンドリンクラブの編曲版も様々な曲が残されており、まだ時々演奏会で取り上げられて頂いております。

広場のコンサートの第10回の演奏会(1959年10月)は前半がさながら「ニューイヤーコンサート」的な選曲でした。

ここでは父の「ラデツキー行進曲」に始まり、朝刊ワルツ、とんぼポルカ、皇帝円舞曲、雷鳴と稲妻ポルカの後、最後に常動曲、といった有名な曲ばかりそろえておりました。

青響時代は暗い戦時中に少しでも聴衆の皆さんを明るい気持ちにしたい、という事で率先してウィンナワルツを演奏していました。国内や海外の演奏旅行でも皆さんがよくご存知の曲を演奏する事で音楽会が少しでも親しみやすく良い気分で終わって頂くことを服部正は常に考えており、そのような中でこのウィンナワルツ、ポルカの曲は「明るく分かりやすい」演奏会にするために欠かせない、レパートリーに持ってこいの素材だったと言えましょう。