アイヌ文化との繋がり(まりものワルツ)

本年4月に当資料館にお問合せがございました。
それも北海道の新冠町にある「レ・コード館」の方からで、表題にある「まりものワルツ」という曲について教えてほしいとの事でした。
まず、この「まりものワルツ」という曲の存在も初耳で、さらに服部正の作品であったことも初めて知り、早速当館の蔵書を調べましたが残念ながら関連情報は見つかりませんでした。
聞くところによると1956年頃のSPレコードの中に収録されていたらしく、ビクターオーケストラによる演奏とされていたので恐らく服部正の関係に間違いは無いと思い、継続的に調査する事に致しました。

最近その方から連絡が来て、この「レ・コード館」にて「『アイヌ』-レコードに刻まれた記憶と音」と題し8月18日から記念展示をされるはこびとなったそうです。
この「まりものワルツ」も展示していただくことになりました。又レコードコンサートも定期的に実施するそうです。
そのご案内先を下記にリンクさせていただきます。

ウポポイ誕生記念展示『アイヌ―レコードに刻まれた記憶と音―』開催のお知らせ

新冠町レ・コード館ご案内

折しも新型コロナウィルス感染症対応でなかなか遠距離の移動が難しくなっておりますが、もし機会がございましたら是非お立ち寄りいただければと存じます。
また、この「まりものワルツ」という曲につきまして皆様何かご存知の事があれば当館にもお寄せ頂ければありがたく存じます。

この曲は「学芸会用」と書かれたキャプションがあったとの事なので、ひょっとしたら「戸倉ハル」先生の関係かとも思われ、またこの1956年前後はNHKラジオの「お話出てこい」の真っ最中ということもあり、この両面で調査してみましたが、当館の資料では確認ができませんでした。当然服部正がどういう過程でこの曲を作ったのか、またアイヌ文化との繋がりがどうだったのかについても情報は残されておりません。

皆様のご協力、ご支援をお願いいたします。

謎の遺品(1)

ベートーヴェン、ウィーン関連の写真

服部正は譜面以外にも様々な遺品を遺しておりますが、どのような経緯で入手したのか、なぜこんなものが服部正の手にあったのか不明な物が少なくありません。
服部正死去後遺品整理の際に出てきた物で、当然本人に聞くわけにもいかず、前後関係や人間関係等から類推するしかありませんが、ちょっと変わった物をこれからランダムにご紹介していきます。

まずこんな写真が出てきました。

服部正は膨大な譜面の他に数々の写真が遺品として残されておりました。自身が撮った写真はほとんどなく、だいたい頂いたものと思われます。(服部正は8ミリ動画撮影はしましたが、カメラ撮影は殆どしておりません。)
この写真はカラーなので昭和30年代以降と思われます。日本のマンドリン界ではそれなりの立場にいた服部正でしたがヨーロッパとの関係はとても薄く、どなたかがドイツ・オーストリアに行かれた時に写真を撮った物を頂いたのかもしれません。
(服部正はアメリカ、ハワイ等は戦後何回か行っておりますが、ヨーロッパはかなり後になってからであり、写真の時代背景上本人が現地で入手した確率は低いと思います。)
ちょっと気になるのは、かの「ベートーヴェンが愛用していた」とまで言われている楽器が、こんな無造作(?!)な状態で保管、また写真撮影されていたことに若干驚いており、真偽を疑ってしまう失礼な気持ちにも多少なってしまいました。確かにベートーヴェンは珍しくマンドリンの為の作品も作っていたので、マンドリンを持っていた事自体に違和感は無く、信憑性は高いと思います。

また、こんな写真も出て参りました。

左側は「オーストリア放送局の放送大ホールでの録音」というような見出しが書いてあり、その下にはアンサンブル名、そして説明として「ウィーン音楽大学卒業生と学生」と記載されております。
右側は「コンサート」と記されており、ニューイヤーコンサート等で皆さんよくご存知の「ムジークフェライン(楽友協会)」の「ブラームスホール」と記載されております。結構な人数がいるだけでなく、さすがウィーンでグランドハープまでメンバーに入っています。クラシック音楽の殿堂と言われているウィーンの音楽界でもこのようなマンドリンアンサンブルが健在だったこと、しかもウィーン音楽大学という名門関係者ということも初めて認識致しました。どのような曲をやっていたかが非常に気になります。
これも勿論服部正が直接このアンサンブルと接触したエビデンスは残っておらず、やはり関係者のどなたかが外遊された際に撮影、もしくは入手された物を頂戴したのではないか、と思われます。

謎が解けたらまたご紹介いたします。

8月2日は服部正の命日でした

服部正の墓〔多磨霊園〕
(マリア像は妻冨士子がクリスチャンであったため設置)

2008年8月2日、服部正は100歳の天寿を全うしました。
思い返すとその時もとても暑かった日でした。

そして今年はちょうど一回りした12年目(ねずみ年)になります。
晩年10年以上は闘病状態で自宅療養を続けておりました。
「音楽」とともに「人」が好きな性格で、慶應義塾マンドリンクラブのOB,現役たちや音楽仲間、様々な業界でお付き合いする人とおしゃべりする事がとても楽しく過ごしていたものの、自宅ベッドからの転落による骨折を機に闘病生活が始まり、人とも会えない日が長く続きました。妻の長年の看病のもと100歳を迎えた年に息を引き取りました。

ここに来て最近当資料館には戦前戦後での楽曲、楽団等のお問い合わせがいくつか来訪したり、SNSでも昔を懐かしんで頂くような投稿もございました。まだこうやって服部正の事を話題にしていただいている事自体に遺族としては大変ありがたく、恐縮に感じております。
お問合せに関するやり取り等でも心温まるお話が多く、いずれ可能な限り資料館としてご紹介していきたいと存じます。

命日にあたりお暑い中ご墓参いただきました方、様々なコメントやご紹介をSNS上でしていただきました皆様に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

引き続き当資料館をよろしくお願い申し上げます。

館長 服部 賢

社歌・校歌のご紹介(15)

社歌のご紹介 ⑤ 明治時代以前創業企業の社歌

今回は業種とは関係なく、明治時代(明治以前含む)から営々と続いている企業で服部正に社歌をご依頼いただいた3社をご紹介します。当然今でもご活躍で皆さんご存知の企業です。

早速創業が古い順番にご紹介します。

まず1858年創業(安政4年)という明治維新の10年も前に創業した「丸紅」社です。
この会社はそもそも伊藤忠兵衛氏が創業した麻、布類の卸売り業ですが、その名の通り「伊藤忠」社とは分割したり戻ったりの歴史が繰り返されて今に至っているとの事です。
この丸紅社は一時期「丸紅飯田」と社名を変えておりましたが、服部正が社歌を作曲した時期はこの「丸紅飯田」時代(昭和30年~昭和47年)の昭和34年で、戦後復興の順調な時代に入ってきた頃です。

丸紅飯田社 社歌(印刷譜)

この直筆譜をもとに丸紅飯田社が印刷譜を作ったものも残されておりました。
作詞を担当された「川村喜太郎氏」については、特に情報が無いので、恐らく丸紅飯田社の関係の方かと想像しております。

その後「丸紅」社と会社名も元に戻った事もあり、この社歌もお蔵入りされたのでは、と思っておりました。
ところが数年前にこの丸紅社から突然文書が来て「社歌の一部を改変したいので、ご了解を頂きたい」とのご意向がございました。一応まだ「社歌」として健在だった事が大変光栄で嬉しく思い、曲そのものの改変ではないので、もちろん応諾致しました。


同じように社歌を改変したいという事でご連絡をいただいた会社として、これも有名な「大日本印刷社」がございました。
大日本印刷社は1876年(明治9年)に「秀英舎」として印刷業を始めた、とのことで、戦後日清印刷社と合併した際に「大日本印刷」社と命名されたそうです。
残念ながら直筆の譜は存在しておりませんでしたが、印刷譜が残されておりました。

工場歌とはなっておりますが、言わば社歌的イメージでお使い頂いているようです。作詞をされた勝先生は様々な社歌、校歌でも有名であり、当時の大日本印刷社の力の入れ様がよく分かります。歌手まで記載されているのは恐らくレコード(ソノシート等)を作られたのではと思いますが、その歌手が「藤山一郎」氏、「伊藤京子」氏という昭和時代ではとても高名な歌手にお願いされているのも驚きです。

伊藤喜商店社歌

最後のご紹介は1890年(明治23年)創業の伊藤喜商店の社歌です。伊藤喜十郎氏が作った会社ですが、これは皆さんご存知の現「イトーキ」で、様々な事務設備・用品等で皆様もご厄介になったことがあるのではと思います。
保存されていたこの青焼き譜は残念ながら服部正の直筆譜ではなさそうで、どなたかが写譜されたものと思われます。
作詞は藤浦洸先生で、これも慶應コンビによる社歌誕生と思われます。商号を「イトーキ」に変更したのは昭和38年(1963年)なので、この曲の作曲時期は恐らく昭和30年代前半ではないかと推測されます。
印刷譜も残されておりました。

伊藤喜商店社歌 印刷譜

実はこのイトーキ社のために服部正はさらに曲を作っておりました。

作詞の竹中郁氏は服部正とほぼ同世代(1904年(明治37年)生まれ)の兵庫県出身の詩人であり、戦後校歌、社歌にも数多くの著作があるそうです。
作曲された時期が1962年なので、まだ商号が「イトーキ」になる1年前ですが、恐らくこの頃は皆さん既に「イトーキ」とこの会社を愛称で呼んでいらっしゃったと思われます。
どのような目的でこの曲を使われたかは不明ですが、付点音符が元気の良いマーチ風に使われているので、何かのイベントや広告関係かと推測されます。

蛇足ですが、現在皆さんがよくお使いになっている「ホッチキス」はこの伊藤喜商店がアメリカのEHホッチキス社から初めて日本に輸入して販売したとの事です。本来この商品は「ステープラー」と呼ばれる種類の文具であり、皆さんよく「ホチキス止めしておいて」なんて日常言っているのも、この「伊藤喜さん」があってこその言葉なんでしょうね。

今回ご紹介した会社は創業100年以上の歴史を持つ日本の代表的な会社ですが、少なくとも2社はまだ何らかの形で社歌としてしっかりご認識頂いている事は大変ありがたく、感謝申し上げる次第です。

校歌・社歌のご紹介(14)

社歌のご紹介 ④ 船舶関係(その2)

前回ご案内した通り、この船舶業界の中でも海運業の離合集散の動きは極めてダイナミックです。服部正は都合3社の海運業の社歌を作ったと思われますが、結局その3社が現存する「商船三井」社1社に統合されてしまっています。

まず「山下亀三郎」氏という実業家が作った会社「山下汽船」社の社歌を作りました。
この「山下汽船」社は1911年に創立、一時は日本郵船、大阪商船に次ぐ大きな存在でした。

山下汽船の社歌は1960年に作られました。作られた経緯は不明ですが、ひょっとすると1954年まで会長だった山下亀三郎氏のご子息の山下太郎氏が慶應出身という事も関係しているかもしれません。
ところが山下汽船はその4年後に「新日本汽船」と合併し、「山下新日本汽船」という会社になりました。この社歌も事実上4年の命だったようです。
しかしながら、この「山下新日本汽船」社の社歌も服部正が新たに作ることとなったようです。
ここの経緯も不明ですが、一般的には合併後の社歌等はお互いの社員の優劣感覚を回避すべく全く違う人脈で作られる事が多く、山下汽船社側からの意向が強かったのではと推測されます。

こちらの譜面には正式な作曲時期が書いてありませんが、合併時期が1964年なのでその時期からそう離れてはいないと思われます。
どちらも「行進曲風」というような書き込みがありますが、やはり全く違う曲です。

さらにここからこの会社はまた合併を繰り返していきます。
1989年に「ジャパンライン」との合併により「ナビックスライン」となり、その10年後の1999年に「大阪商船三井船舶」と合併し、現在の「商船三井」となったようです。
山下新日本汽船社としては1989年までなので、山下汽船時代から数えると約30年間は服部正の社歌が使われていたのでは、と憶測できます。

一方で大阪商船三井船舶社も合併を重ねており、そもそもの大阪商船社は1884年に創業、三井船舶は1942年に三井物産船舶部から独立して会社組織になりました。
そして1964年に「山下新日本汽船」と同じタイミングでこの2社が合併し、そしてナビックスラインと1999年に合併し商船三井社にたどり着く事になります。

ところがここに面白い事があり、服部正の譜面の中から「三井ラインの歌」というものが青焼きコピーの状態で発見されました。

三井船舶の事を当時は「三井ライン」と呼んでいたようであり、歌詞を見ても何となく海運業を彷彿とさせる内容なので、これは三井船舶の歌ではないかと推測されます。歌詞も「藤浦洸」先生が補作されているので、服部正との慶應コンビがここでも登場しており、三井グループともゆかりがあるので可能性は高いと思われます。そしてこれは大阪商船と合併する前の作品と思われ、1964年以前の作曲と考えられます。服部正の筆跡からみても1950年代以降と思われますが、事実上服部正は商船三井社の前身の会社の曲を3曲も作っていた事になり、それぞれ将来合併するとは当然夢にも思わず作曲していたわけです。もちろん委嘱した会社側も当時は全くそんな事は予想していないはずです。

今回この3曲をご紹介するにあたり、商船三井社のホームページの「歴史」欄を拝見させていただきましたが、日本の海運業の整理統廃合の中にこんな社歌の流れがあったとは想定外でした。
でも当時の会社のOBの方々で社歌をご覚えていらっしゃる方もおられるとは思います。是非いつまでも心の中で大事にしまっておいていただけたらと存じます。

校歌・社歌のご紹介(13)

社歌のご紹介 ③ 船舶関係 (その1)

島国「日本」の古くからの有益な交通手段は、まさに「船」でした。明治時代になりこういった船作りの会社が産声をあげ、船を使った商売をする事業も進んで行きました。
今回はその日本のお家芸とも言える船舶関係の会社の社歌をいくつかご紹介します。

まず「作る」方では「浦賀ドック」と「大阪造船所」の社歌を服部正が作っておりました。

浦賀ドックそもそもは1897年に「浦賀舩渠」として設立されました。(譜面表紙の下の方に「浦賀舩渠株式会社」と鉛筆で書かれております。)残念ながら2003年に閉鎖されてしまいましたが、戦前は「駆逐艦」を主に作っていたようです。今でもそのレンガ造りのドライドック跡地が横須賀市の観光スポットとして人気を集めています。
譜面からは作られた年月は分かりませんが、譜面の状態や筆跡を見る限りはこの譜面自体は戦後間もないころから高度成長期の間頃と想像できます。
作詞は大木惇夫先生であり、あの「野の羊」の作詞者として大変お世話になった方です。
しかし、どなたがお書きになったのか分かりませんが、直筆の譜面に赤鉛筆で「服部先生・・」と無造作に書いてあるのを見ると、当時は本当にこういった事におおらかな時代だったのでしょうか。

一方の大阪造船所は現在でも「ダイゾー」として活躍されております。こちらは1936年に設立された会社です。そもそもは造船業ですが戦時中にかなりの被害を受けて一旦工場の操業が中止されたそうで、戦後再起をはかり今は多角的なビジネスに取り組んでおり、「エアゾール」とか「自転車駐輪場施設」等にも実績が上がっているとの事です。

こちらは作曲時期がしっかり書かれており、1971年10月という「大阪万博」の次の年に作られたようです。
かなり服部正もこの作曲には力をいれていたのか「作詞」まで手掛けており、残された譜面を見ると、このオーケストラ版だけでなくブラスバンド伴奏や混声合唱用の譜面まで作っていました。
どのような経緯で作曲されたのかは不明ですが、大阪万博の前後で大阪もひときわ盛り上がっていた時代なので社歌でモチベーションアップを図ったのでしょうか。このオーケストラ譜面を見ても冒頭いきなりトランペットのファンファーレで始まっており、「気合」が入りそうですね。

次回は船を使って商売をする会社についてご紹介します。
本当は今回一気にご紹介したかったのですが海運業は合併・吸収が著しく、多少ご説明が長くなりそうなので次回に回させて頂きます。

山田耕筰氏と服部正

今、NHKの連続テレビ小説で「古関裕而氏」の生涯をモチーフにした「エール」という番組をやられているのは皆さんご存知と思います。
古関裕而氏は服部正の1年後に生まれ、そういった意味では全く同時代を生きた作曲家でした。
あるテレビの音楽番組では審査員の一人として一緒に出たこともあったようです。

この番組で今非常に脚光を浴びているのが、惜しくもコロナウィルスで亡くなった「志村けん」氏演ずる「山田耕筰」像が評判になっている事です。
服部正も自著に「山田耕筰氏」との出会いが比較的明確に記載されておりました。
「エール」でも山田耕筰氏の人となりが個性的に描かれていますが、この服部正の自著でも個性的な一面を覗かせています。
今回はその部分をご紹介しましょう。
「広場で楽隊を鳴らそう」の本では第2部「音楽を職として」の中の「楽壇へ」の一部分です。

*****

それより少し前、わたくしは、かねてからの念願であった管弦楽曲の第一作を書きあげた。青木正(註 日本放送協会音楽係、深井史郎氏の紹介で縁故)に見せると、彼は非常な好意をもって、当時の楽壇の大御所、山田耕筰氏のところへ持っていってくれた。山田氏は、はじめて書いたその管弦楽曲を、放送局が一年に一度か二度行う「邦人作品の夕」(変な言葉だが、楽団ではこの「邦人」という称を最近まで作曲家についてだけ冠していた)という時間にとりあげ、日本放送交響楽団の演奏で彼自ら指揮してくれることになった。わたくしは、自分の作品が「音」になるという喜びで胸がつぶれそうだった。

練習の日には、自分の初めて書いた管弦楽曲をきくために、期待と不安の錯綜した感情で、荏原の練習所へでかけた。若い時の作品は必要以上にむずかしく書くものである。山田耕筰氏はそのような「管弦楽のための組曲」なる作品を、たいへん親切に練習してくれた。日本の交響楽の育ての親ともいうべき山田氏のオーケストラに対する熱情をよく知ることができたのは嬉しかった。わたくしは、山田氏の指揮する背中を、まったくゼロから始まった日本の交響楽運動への献身の姿として、なつかしく眺めた。そしてこの仕事を、わたくしも受継いでやりたいものだと思った。
翌日、放送が愛宕山のスタジオで行われた。

-- 中略 --

放送がすむと、非常にご機嫌のいい山田耕筰氏は、わたくしや青木氏をさそって、銀座のモナミへ出かけた。そのころのモナミは、ヨーロッパ風のレストランで一流だった。入口をはいるやいなや、さっそうと先頭に立つ山田氏の姿を認めて、ボーイたちが一斉に出迎えに立ち、きめられたもののように奥のスペシャル・ルームへと導いた。わたくしたちはそこでビールをご馳走になったのだが、山田氏はみずから立って、一人一人にビールを注ぐのである。彼は、白ビールと黒ビールを両手に持ち、一つのタンブラーへ同時にぶっつけて注ぎ込むという芸当を見せてくれた。タンブラーの中には、琥珀色の泡がさながら幻の如き感じでわき立ちかえる。一座は放送局の青木、桜井、菅原先生(註 菅原明朗氏 服部正の唯一の師)、その他の人々。山田耕筰の全盛期であり、わたくしは感受性ゆたかな二十五才である。山田耕筰という人物は作曲家であるばかりでなく、何か不思議な力をもっている人物だ-と、この情景を見て感じていたものであった。

25歳の服部正

そこへ年少のボーイが入ってきた。山田氏はボーイにむかって、
「きみ、手相をみてやろう」
と言う。彼は、少しはずかしそうに片手を出す。
「ぼくは手のひらでなく、こうの方を見るんだ。・・・」
とばかり手をひっくりかえしてしまう。
「ほう、きみは少し気が短いね」
などという。ボーイは赤くなっている。そのうちに、わたくしたちもビールの歓をひいて陶然となっていった。いつの間にか、すみの方では、山田耕筰が少量の白飯にカレーをかけ、うまそうに食べている。

*****

この最後の「カレー」の部分は先日の「エール」で志村氏が喫茶店でバニラアイスクリームを食しているシーンを彷彿させるようにも思え、さすがNHKの時代考証はしっかりされているな、と感じてしまいました。

志村けん氏のご逝去を心よりお悔やみ申し上げます。

校歌・社歌のご紹介(12)

社歌のご紹介 ② 大手百貨店関係

戦後復興の中で一般消費者にとって一番身近な立役者は、なんといっても「デパート」でしょう。古くは江戸時代からある越後屋から三越に流れていき、その後明治、大正、昭和と大型デパートが大都市に続々と開店していきました。
服部正の手掛けた作品で、このデパート関係の譜面が3社分残っておりました。どれも正式な「社歌」ではありませんが、関係曲としてご紹介します。

若い力のマツザカヤ 自筆譜

まず「マツザカヤ」です。
譜面には「マツザカヤ店歌」と書いてありますが、マツザカヤ内部では「若い力のマツザカヤ」とされているようです。
譜面には作曲年代が書いてありませんが、その筋で調べてみると昭和39年3月との情報を得ました。
実はマツザカヤには全部で3つの歌があるようで「マツザカヤの歌(三木鶏郎作詞作曲)」と「振り向けばマツザカヤ(永六輔作詞、中村八大作曲)」という、どちらもそうそうたる方の作品です。3曲とも昭和30年代の作品で、服部正の曲と中村八大氏の曲は昭和39年のまさに東京オリンピック直前の作品でした。この「若い力のマツザカヤ」の作詞は野々部公子氏という方で、調べても他にこれといった著作が見つからなかったため、マツザカヤの関係者でしょうか。
この曲は今でも時々JASRACの利用報告書にて「録音使用料」の欄に乗っかってくる事があり、いったいどんなイベントで使っているのか非常に気になっています。

実は服部正の自著「広場で楽隊を鳴らそう」に、マツザカヤに関係した記事が載っていました。
時は昭和10年秋、当時の舞踊界の花形「花柳寿美」が踊る「オムニバス舞踊劇『魔笛』」の音楽全般を当時27歳の服部正が担うことになりましたが、その時の伴奏オーケストラが「松坂屋管弦楽団」でした。この楽団は明治末期からある日本最古のオーケストラと言われ、今の「東京フィルハーモニー交響楽団」の前身となります。当時の楽長の早川弥左衛門氏に事前に譜面のチェックをされる等、緊張していた一節が書かれていました。そんな経緯があったのかどうかは分かりませんが、このような作品を受諾したのでしょうか。
ちなみにこの「若い力のマツザカヤ」作曲時点では、松坂屋管弦楽団は既に東京フィルハーモニーとして活躍していました。

他の2つの”百貨店”はどちらも「労働組合の歌」という、会社本体の歌ではない作品でした。
まず一つは「全そごう労働組合の歌」で、印刷譜が残されておりました。
「そごう」は大阪にあった「大和屋」が起源であり、関西地方に多く出店していたようですが、なぜか労働組合の歌を服部正に依頼してきたようです。歌詞の西村スエ子氏はプロの作詞家ではなさそうなので「そごう社」の関係者かと思います。

全そごう労働組合の歌 印刷譜
伊勢丹労働組合歌 自筆譜

そしてもう一つは「伊勢丹労働組合の歌」が残されています。
この譜面の表題部は服部正の筆跡ではないので、どなたか(伊勢丹関係者か?)が追記したのではと思います。
特筆すべきは、この曲の作詞はなんと「サトーハチロー先生」であり、デパートによってこういった社歌等の扱いも微妙に変わってくる事も興味深いです。

高度成長期時代は企業がどんどん発展していくとともに、従業員を守る「組合活動」も活性化しており、服部正も労働組合歌をいくつかの業種で作っています。特に当時のデパートは若手の従業員も多かったので、こういった組合歌を作って意気高揚を図った背景もあったのかもしれませんね。

校歌・社歌のご紹介(11)

社歌の紹介① 鉄鋼大手会社

今まで校歌を中心にご紹介してきましたこのシリーズ、東京都を残しておりますが、実は新型コロナウィルス感染の影響で学校訪問をストップしている関係上、一旦「社歌」の方に舵を切りたいと思います。
今回はそれこそ日本の戦後復興で最大の立役者になった鉄鋼会社の社歌を3社ご紹介します。
とはいってもそのうち2社は合併の波に巻き込まれ、恐らく社歌としては現存はしていないと思います。

まず唯一残っている会社「神戸製鋼所」の社歌です。
残念ながらこの社歌がいつ頃作曲されたかについての情報が、譜面には残っておりません。
譜面の字体や記譜の状況から昭和30年後半から40年代ではないかと想定できます。

神戸製鋼所 社歌の歌詞

この社歌の作詞についても譜面上には何も記載されていませんでした。譜面とともに歌詞の書かれた紙が残されており、ひょっとしたら会社の中で歌詞を公募する等の動きがあったのでしょうか。
実はこの文書、実に興味深い一節があります。
冒頭の(三九四)。
正直何の意味か全く不可解です。パッと思いついたのは、この数字、実は「さくし」と読むのでは、と思ってしまいました。真偽は分かりませんが、もしそうだとしたらなかなか洒落っ気のあるスタッフだと思います。

続いては「住友軽金属工業」です。
この譜面にはしっかり作曲時期が書かれておりました。

昭和38年1月というと、まさに東京オリンピック開催の前の年であり、様々な産業がそれに向かって大きく羽ばたいていた時期です。当然住友軽金属社としてもこの波に乗って業績を大きく伸ばしていきましたが、2013年に古河スカイと合併し「UCAJ社」となりました。
ここでは作詞を社歌、校歌の作詞家として著名な勝承夫先生が担われております。

そして鉄鋼大手の「日本鋼管社」の社歌も服部正が担当していました。

ここにも作曲年月が明記されており、1962年(昭和37年)東京オリンピックの2年前です。日本がどんどん発展していく時期に日本鋼管社も意気を上げようという背景で作られたのではと思います。歌詞も佐伯孝夫先生であり、力が入っています。
この社歌にはピアノ譜の他にオーケストラ譜の自筆譜が残っていました。
よく見るとオーケストラとして欠落している楽器があります。
ホルン、ファゴット、そしてヴィオラ。
想像するに、日本鋼管社が持っている管弦楽団のために作った譜面かもしれず、その時にそのオーケストラにその楽器の団員がいなかったのではとも思われます。(ヴィオラが欠落しているのも、当時のアマオケには時々ありそうな事ですね。)
日本鋼管社は2002年に川崎製鉄社と合併し今はJFEスチール社として活躍しています。

譜面や別添資料からこんな想像しているのも面白い「社歌」のご紹介でした。

戦時中の音楽会を知り、今の日本の音楽家を救おう

2020年4月、今や東京を中心として全国に新型コロナウィルス感染が蔓延しており、全世界も日本以上に大災害となっています。経済活動だけでなく様々な文化活動にも筆舌に尽くしがたい影響が出ており、特に演奏家、さらに音楽組織や組織のもとで働く人にとっては死活問題となっています。

服部正著 広場で楽隊を鳴らそう 出版本

以前ご紹介した服部正の唯一の自叙伝「広場で楽隊を鳴らそう」の記事の中に、戦時中の音楽活動の事がかなり詳しく書かれており、これを読み返していると当時の聴衆と今現在の音楽ファンの心境に非常に類似性を見出しました。
ここに印象的な文書をご紹介します。

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 (昭和)二十年に入ってからの(青響)演奏会は、プログラムもチラシも、一枚も残っていない。十九年暮れにひらいたときのチラシは、石版刷りで、まるで明治時代の印刷のようだし、当日会場でわたしたプログラムはガリ版刷りであった。そして、新聞の三行広告とわずかなポスターが街にはられた程度であるのに、どこから集まるのか、聴衆の数は圧倒的だった。

戦争が末期に近づくにつれ、東京には娯楽と名のつくものはなにひとつなくなった。大劇場はすべて閉鎖され、日劇は風船爆弾という兵器の工場となっていた。映画もラジオも、戦意昂揚ものばかりが上映されていた。青響の音楽会がうけたのは、そのような状況も影響していたに違いないが、何も特別なことをしなくても不思議な程聴衆は集まった。といって、わたくしは、特別、意識的な抵抗感をもって演奏会をひらいているのではなかった。それはただ平時と変わらぬプロを組んだだけである。戦争中であるからといって、音楽が変わるとは思えなかった。聴衆が望んだことは、要するに平時に帰りたいことなのである。わたくし自身も、聴衆と同じようにそのことを望んでいたし、平時の音楽を平時の心で演奏したかったのだ。
(( )内は筆者補筆)
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ここでは敵は「連合軍」ではありますが、現在の敵は「新型コロナウィルス」です。
もちろん当時と政府、環境や国民の意識は全く違うものの、この最後の部分「要するに平時に帰りたいことなのである。わたくし自身も、聴衆と同じようにそのことを望んでいたし、平時の音楽を平時の心で演奏したかったのだ。」というのはまさに今の状況ではないでしょうか。
音楽家はどんどん仕事が無くなり、PRする場も少なくなっています。逆にYouTube等の動画サイトは余りにも投稿が増え、本質をわきまえない見てくれの動画も横行しており、こう言った分野に精通していない人にとっては混乱の真っただ中にいるようにも感じとられます。

せっかく頑張っている音楽家(これはプロもアマチュアも問わず)に対し私としても何とか気分を持ち直してもらい、「平時に戻る」際に再度盛り上げるべく応援していきたいと思っております。

私事で恐縮ですが、やはり某学校の音楽団体の3月の定期演奏会が中止になり、その時最終学年の人にとっては数年間の最後の演奏会を終えることが出来なかった場面に出くわしました。まだ自粛要請が出る前に何人かでアンサンブルと軽食会をしましたが、その誘いをメールで呼びかけた時とても喜んでいただきました。
金銭的な面や具体的な支援策はすぐには出来ないかもしれませんが、まずは声をかけたりメール等で呼びかけたりする事でも音楽家の方は少しでも気持ちが穏やかになると思っております。
是非周囲にそのような方がいらっしゃったら、声をかけてみてはいかがでしょうか。(現在はなかなか「会食」がやりづらいのが残念ですが、、、)

前回ご案内した「コンコルディア」の6月の演奏会は9月に延期になったとご連絡をお受けしました。もう一度気を取り直して頑張っていただきたいと思います。