「指揮者」としての服部正 (1)

今まで本資料館のご紹介は「作曲家」としての服部正の姿が殆どでした。
それは作曲した作品が譜面として残されていたり、録音として聞く事が出来るため、具体的なお話がしやすかった事もあります。
しかしながら「指揮者」という面からみると、これが非常に物的資産が少ないためにご紹介に至らない部分が多かったと感じます。(活躍していた当時は「ビデオ」の普及度はほとんどなく、仕上がった録音のみでした。)
指揮者という仕事は演奏会の本番で「棒を振る人」としか見えない方も多いと思いますが、そこに至るまでのオーケストラへの様々な指示、啓蒙、状況判断等1回の演奏会に辿り着くまでに大変な道のりがある事はそれほど話題にのぼりません。しかも演奏会で音を出すのはオーケストラであり、指揮者は「声も出せない」存在でありながら、拍手を送られる立場に立つという面白い立ち位置にあります。
服部正の指揮を体験した人は実は非常に多く、60年以上に亘って慶應義塾マンドリンクラブの指揮をしていた事によるその間の卒業生が数百人にも及ぶ事です。しかしながら彼らのほとんどは一般企業に就職し、それ以降の音楽活動は「余暇」での活動なので「服部正」以外の本格的指揮者と巡り会う機会はほとんどなく、指揮者としての比較論がしにくい状況です。
今回不肖私が慶應義塾マンドリンクラブ時代に見た服部正の指揮、そしてその後アマチュアオーケストラに20年以上お世話になった際の数々の若手プロ指揮者の双方を経験したので、そういった側面から少しずつご紹介してみたいと思います。

昭和30年代前半の服部 正


服部正は自著の「広場で楽隊を鳴らそう」にて、学校卒業後に音楽界に入った時の記事で、指揮者についてこんなことを書いていました。

「わたくしはマンドリンクラブの指揮者としての経験は持っていたけれど、職業的管弦楽団の指揮はしたことがなかった。要するに自分がアマチュアだという劣等感があって、はじめのうちはなかなかうまくゆかなかった。そのうえ、当時「楽士」といわれたオーケストラのメンバー諸君は、いささかヤクザ風な気質をもっていて、わたくしのごとき学生上がりのインテリを、毛嫌いする傾向があった。しかも、彼らの生活状況は、レコード景気で非常に豊かであり、一応は「売れっ子」意識もあって、流行職業としてのプライドが高いから、これをうまく指揮することは、よい編曲をするよりはるかにむつかしいことだった。」

これは昭和初期の状況ですが、ある意味今でも程度は下がったとは言え、どこかにこの気質は残っているとも思われます。
私は父が音楽家だったため一般サラリーマンの生活に学生時代まで接点がなく、就職後実態として感じましたが、「指揮者」もある意味一般企業で言えば単なる管理職であり、部下がいう事をきかなかったり、古参の強者担当者が常に怪訝な目つきで仕事をしたりしている組織の上司と似て非なるものと思うようになってきました。

また次回に続けて行きたいと思います。

館長
1955年 服部正の長男として東京で生まれた。                     1978年 慶応義塾大学卒業(高校よりマンドリンクラブにてフルート担当)        同年    某大手電機メーカーに入社(営業業務担当)                  2015年 某大手電機メーカーグループ会社を定年退職                  現在 当館館長として「服部正」普及活動従事       

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