戦時中の音楽会を知り、今の日本の音楽家を救おう

2020年4月、今や東京を中心として全国に新型コロナウィルス感染が蔓延しており、全世界も日本以上に大災害となっています。経済活動だけでなく様々な文化活動にも筆舌に尽くしがたい影響が出ており、特に演奏家、さらに音楽組織や組織のもとで働く人にとっては死活問題となっています。

服部正著 広場で楽隊を鳴らそう 出版本

以前ご紹介した服部正の唯一の自叙伝「広場で楽隊を鳴らそう」の記事の中に、戦時中の音楽活動の事がかなり詳しく書かれており、これを読み返していると当時の聴衆と今現在の音楽ファンの心境に非常に類似性を見出しました。
ここに印象的な文書をご紹介します。

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 (昭和)二十年に入ってからの(青響)演奏会は、プログラムもチラシも、一枚も残っていない。十九年暮れにひらいたときのチラシは、石版刷りで、まるで明治時代の印刷のようだし、当日会場でわたしたプログラムはガリ版刷りであった。そして、新聞の三行広告とわずかなポスターが街にはられた程度であるのに、どこから集まるのか、聴衆の数は圧倒的だった。

戦争が末期に近づくにつれ、東京には娯楽と名のつくものはなにひとつなくなった。大劇場はすべて閉鎖され、日劇は風船爆弾という兵器の工場となっていた。映画もラジオも、戦意昂揚ものばかりが上映されていた。青響の音楽会がうけたのは、そのような状況も影響していたに違いないが、何も特別なことをしなくても不思議な程聴衆は集まった。といって、わたくしは、特別、意識的な抵抗感をもって演奏会をひらいているのではなかった。それはただ平時と変わらぬプロを組んだだけである。戦争中であるからといって、音楽が変わるとは思えなかった。聴衆が望んだことは、要するに平時に帰りたいことなのである。わたくし自身も、聴衆と同じようにそのことを望んでいたし、平時の音楽を平時の心で演奏したかったのだ。
(( )内は筆者補筆)
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ここでは敵は「連合軍」ではありますが、現在の敵は「新型コロナウィルス」です。
もちろん当時と政府、環境や国民の意識は全く違うものの、この最後の部分「要するに平時に帰りたいことなのである。わたくし自身も、聴衆と同じようにそのことを望んでいたし、平時の音楽を平時の心で演奏したかったのだ。」というのはまさに今の状況ではないでしょうか。
音楽家はどんどん仕事が無くなり、PRする場も少なくなっています。逆にYouTube等の動画サイトは余りにも投稿が増え、本質をわきまえない見てくれの動画も横行しており、こう言った分野に精通していない人にとっては混乱の真っただ中にいるようにも感じとられます。

せっかく頑張っている音楽家(これはプロもアマチュアも問わず)に対し私としても何とか気分を持ち直してもらい、「平時に戻る」際に再度盛り上げるべく応援していきたいと思っております。

私事で恐縮ですが、やはり某学校の音楽団体の3月の定期演奏会が中止になり、その時最終学年の人にとっては数年間の最後の演奏会を終えることが出来なかった場面に出くわしました。まだ自粛要請が出る前に何人かでアンサンブルと軽食会をしましたが、その誘いをメールで呼びかけた時とても喜んでいただきました。
金銭的な面や具体的な支援策はすぐには出来ないかもしれませんが、まずは声をかけたりメール等で呼びかけたりする事でも音楽家の方は少しでも気持ちが穏やかになると思っております。
是非周囲にそのような方がいらっしゃったら、声をかけてみてはいかがでしょうか。(現在はなかなか「会食」がやりづらいのが残念ですが、、、)

前回ご案内した「コンコルディア」の6月の演奏会は9月に延期になったとご連絡をお受けしました。もう一度気を取り直して頑張っていただきたいと思います。

館長
1955年 服部正の長男として東京で生まれた。                     1978年 慶応義塾大学卒業(高校よりマンドリンクラブにてフルート担当)        同年    某大手電機メーカーに入社(営業業務担当)                  2015年 某大手電機メーカーグループ会社を定年退職                  現在 当館館長として「服部正」普及活動従事       

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