国立国会図書館~「れきおん」での服部正音源

先日の「業間体操」の話題で「自然美運動」というキーワードが気になり調べてみると「国立国会図書館に何らかの情報がある」という事を知り、ある日国会図書館のホームページを調べてみました。そうすると「れきおん」というコーナーがあり、歴史的音源(1900~1950年代のSPレコード音源)のデジタル化という画期的なサービスが該当するようです。


   国立国会図書館「れきおん」のページ

早速「服部正」で検索すると何と326件もヒットしてしまいました。ところがすべて「館内限定」でネット経由での試聴が出来ないので、国会図書館まで出かけようとアクセス等調べてみると、「持ち込める携行品はB5以下の透明の袋に入れて、後は手荷物を預けて、、、」等結構入館に手間がかかりそうなことが事が記載されており、ちょっと足がすくんでしまいました。
ただ日本全国各地にある「歴音参加館」として認められている図書館でも視聴可能と書いてあり、品川図書館でも扱いがあったので、まずはそこに行ってみる事にしました。

品川図書館では丁寧に案内され、カウンターに設置されたパソコンにヘッドホンをつないで頂き試聴出来る態勢になりました。とても326曲を聞くだけの時間と体力は無かったのであらかじめ候補曲をいくつか決めて行きましたが、とりあえず1回1時間との指定だったので早速アクセスして聞き始めました。

まずびっくりしたのは1950年代以前というのにデジタル音源化された音が結構クリアーで良い音だったことです。そして自然美運動だけでなく様々な曲(南極観測隊の歌、はとぽっぽ体操、初代ラジオ体操第一等)を次から次に聞いていきましたが、服部正の作品がこのような形で残っていることが大変うれしく感動してしまいました。
ただ、残念なのは当然ながら音源のコピーが出来ないので、聴いた音楽をどこまで自分の記憶に留められるかという課題があります。もうこれは気に入ったら「図書館に通うしかない」ようですね。(結構たくさん聴いたので、どれが「自然美運動」の曲だったか記憶が曖昧になってしまったのが実態です。)

とりあえず作品としての目ぼしい物を大体チェックしたのですが、どうしても気になったのが「1930年代に録音された慶應義塾マンドリンクラブの演奏」というのがあり、それが何と20曲以上もリストに載っているのです。ほとんどがいわゆる「名曲のマンドリン合奏用への服部正の編曲」で、これも時間が許す限り片っ端から聴いてみました。演奏も当時としてはプロ並み以上で非常に良かったと思いますが、何よりもこの音の先に恐らく指揮をしている20代の服部正の姿があると思うと非常に興奮してきてしまいました。

本ページをお読みになっている皆様もぜひお時間があれば、この「れきおん」で服部正の音楽を聴いてみてください。「れきおん」のページからお近くで聴ける各地の図書館の案内にも飛べますので、そこで調べれば東京の永田町まで行かなくても十分堪能できます。
ただ限られた時間での視聴なので、出来ればあらかじめこのページで聴きたい曲を選択して(メモに書く等)から赴いた方が良いと思います。さらには前述の通り「記憶に留める」限界があるので「体調を良くして」訪問することをお勧めします!!

朗報・埋もれた作品の出現!「自然美運動」~新宿高等学校「業間体操」

先日本HPご覧頂いた方からご連絡を頂きました。
その方は慶應義塾の要職におられる方ですが、東京都立新宿高等学校のOB会の幹部の方でもあり、何でも「業間体操」と呼ばれる体操の音楽について使用のご相談という事でした。
そもそもの原曲は「自然美運動」という曲だそうで、調べてみると国立国会図書館のライブラリにしっかり入っており、作曲・編曲も「服部正」と明記されていました。とは言うもののその「自然美運動」「業間体操」と言われるものについて当方は全く存じ上げず、しかも残存譜面の中にもそのような名前のものが無く、正直言って「狐につままれる」状態でした。

後日その方とお会いさせていただきましたが、この「新宿高等学校創立100周年記念行事」としてその業間体操の動画について音楽の使用許可のご依頼でした。こちらとしては事実を知らない大変恥ずかしい状況であり大変恐縮してしまい、当方がもちろん使用についての異存は全く有りませんので了解を即答させていただきました。(何とYouTubeでもその音楽付き動画がしっかり入っています!!)
作曲が昭和28年ということだそうで、ちょうど現在の「ラジオ体操第一」ができたのがその2年前の昭和26年だったので、このころは服部正も体操音楽のフィーバー時期だったのかもしれません。

先日その新宿高校のそばを通ったので正門を拝見してきましたが、新宿駅からほどない場所でありながら、すぐ裏に「新宿御苑」があるという環境の面でもうらやましい場所です。しかもこの高校は東京都立高等学校の中でも進学校として名高い高校の一つと言われており、そんな由緒ある学校の貴重なイベントに服部正がかかわることが出来たのも大変光栄な事です。

新宿高等学校メインエントランス

新宿高校殿100周年は2022年(平成34年)という事らしいそうです。盛会をお祈り申し上げます。
ちなみに文中のYouTubeについてリンクを貼ってみました。
(音楽を聴くと「間違いなく『服部正』の作品」と分る曲想でした!)

こうやって考えると「服部正の譜面管理の杜撰さ」で様々な学校、法人に対して大変失礼な対応をしていたかもしれず、改めてこの場を借りてお詫び申し上げたいと思います。「うちの学校(会社)も服部正の曲なんだけど、、、」という方がいらっしゃったら、大変恐縮ですが情報を頂けると幸いです。(本当に恥ずかしい話ですが、、、)

服部正、譜面修正術の荒技!

服部正は以前より作曲の際は「鉛筆」をほとんど使わず、モンブランの「万年筆」を常用していたことはこのホームページでもご紹介しました。
しかしながらやはり「人の子」なので間違える事も往々にしてあります。当時は今のような「修正液」「修正テープ」や「修正ペン」なるような便利な代物は勿論ありません。ではどうしたか?
「早書き」のレッテルを貼られている服部正としては時間節約のためにかなり荒技をやっていました。
まずサンプルとして「バス通り裏」(第49回~54回)のアンサンブル譜面をご紹介しましょう。このほんの数ページでも「修正術」が多用されていることが分かります。

まず初っ端の第1小節目からピアノのパートの部分(赤丸)に何となくうさんくさい音符が並んでいます。これは多少の音の違いなので強引にペンで直しながらも、恐らく実際のスタジオの音取りの段階で服部正自らが口頭で修正指示もしたのではと思います。

次は「砂消し」というインクの「消しゴム」的な道具の登場です。(赤丸部分)

これはインクを削ると言うよりも「紙を削る」ので何回も同じ場所で使ったり裏側の同じ位置の譜面にも使用したりすると紙そのものが破れてしまう恐れがあるだけでなく、結構消すのに時間と手間がかかるので、あまり服部正は多用していなかったようです。この譜面でも手間のわりにきれいに消えていない事が分かります。

上下に空いた五線部分があるとそこにスイッチするやり方もあります。

この赤丸の部分はフルートパートですが最上段に書かれていたのでたまたまその上の行が空いていたりすると使える芸当です。(それよりも赤の矢印の交差が気になりますが、、、)

そして服部正の最も良く使っていた芸当「切り貼り紙」が登場します。

この赤丸部分を良く見て頂くと一番左側の約1小節分が最上段から最下段まで切り貼りされていることが分かります。この譜面はちょっと特異な例で普通は1~2段だけの切り貼りが結構多用されています。服部正はこのような対処をするために同仕様の白紙の五線紙の予備を常に持っており、間違えた時にそそくさと切り貼りし、その上で修正後の譜面を書いているようでした。
服部正の執務机には「五線紙」と「万年筆」と「インク」だけでなく、「はさみ」と「糊」も必須アイテムであったようです。
(この写真では「はさみ」も「糊」も隠しているようですが、、、)

わりと健啖家の服部正

服部正は日頃お酒をほとんど飲みませんでしたが、食べる事に対しては非常に旺盛であり、またあまり好き嫌いを言わずに何でも口にするタイプでした。
家庭では妻の冨士子が気を遣って野菜中心で動物性タンパク質としては鶏肉、魚をメインにした料理を作っていました。ただ、仕事で出先での飲食も当然増えてきますが、特に演奏旅行や放送局の出張録画等があると、そこの現地での郷土料理等も提供されますので、そういったものも積極的に摂っておりました。

この写真はどこか遠隔地での仕事の合間と思われます。ビール瓶もあるので仕事終了後でしょうか。

服部正は「すき焼き」は結構好きで、この写真を見ても喜んで頬張っている姿が分かります。
また、この写真はオーストラリアのメルボルンでの現地の方たちとの野外バーベキュー大会の一コマです。慶応マンドリンクラブのオーストラリア演奏旅行中でした。

当然「オージービーフ」のステーキですが、こういったものもペロリと食べてしまいました。
慶応マンドリンクラブでマレーシアに行った時も、立食パーティでははっきり言って「辛くない料理」を探すのに非常に苦労した覚えがありますが、服部正はそんな事も気にせずにむしゃむしゃとマイペースで色々な物を食べていました。
考えてみれば、このオーストラリアも67歳頃、マレーシアに至っては70中盤という当時からすれば「後期高齢」と言われてもおかしくない年ですが、この健啖家ぶりが連日の演奏会での指揮をするパワーに結びついているのでしょう。見習う面も十分ありそうですね。

服部正と妻「服部冨士子」

今まで敢えて触れておりませんでした服部正の妻(私から言えば「母」)について今回初めてご紹介します。
1954年に服部正は「小西不二子」という女性と結婚した、という事が自著に書かれております。その自著では「2回目の結婚」という事もはっきりと判るような表現をしております。

服部冨士子(不二子から改名したものと思われます。)は1926年(大正15年)京都出身であり、(一説には生まれた場所は中国だったとも伝わっていますが)考えてみると「あずま男に京女」という図式の結婚になったようです。もともとはバレリーナだったらしく、そこでの出会いと思われます。年の差なんと18歳でした。
結婚して間もないと思われる写真が見つかりました。

その後音楽家の妻として様々な所で夫服部正をサポートし、自宅の来客に対しても甲斐甲斐しく接客していました。一時期は楽団「グレースノーツ」の運営でもかなり突っ込んだ立場で対応していました。
その後服部正も第一線での活動がほぼ終わった頃から、2人で近場の観光地を訪れたりして老いても仲良く暮らしていました。その頃の自宅でのショットです。

ある時服部正が自宅のベッドから転落し腰骨を骨折してから歩行が厳しくなり、車椅子での移動、そしてその後寝たきりになってしまいましたが、結局服部正が100歳まで生き永らえたのはこの服部冨士子の献身的な看護、介護によるものが大きいとはっきりと申し上げられます。

実はこの服部冨士子が先日の3月31日、91歳の天寿を全う致しました。今頃やっと最愛の夫服部正のもとに馳せ参じているのではと思います。
(本人が生きている間はこの資料館での「妻」としてのご紹介は控えさせていただきましたが、こういう事情なため今回の運びとなりました。)

医師から死亡通告を受け、病院のベッドで「本当に長い間お疲れ様でした。そして服部正、私の為に一生懸命いろいろと尽して頂きありがとう。早くおじいちゃん(服部正)の所に行ってあげてください。」と声をかけてさしあげました。

仙台育英高校 残念! でも、福井工大福井高校も、、

本日の選抜高校野球で宮城県の仙台育英高校が出場しました。
後半まで順調にリードしていましたが、残念ながら最終回に逆転を許し、そのまま終了し1回戦で甲子園を後にすることになりました。選手の皆さんよく頑張りました。是非夏にまた戻ってきていただきたいと思っております。
2回の裏に校歌を演奏するところをNHKテレビでもしっかり放映頂き、私も拝聴する事ができました。

ところで、今日仙台育英高校を破った福井工大福井高校の選手のユニフォームを見ていると、袖に「金井学園」と記載されていました。
すぐに調べてみるとこの学校は「学校法人金井学園」に所属する学校の一つであることが分かったのですが、聞いたことがある名前だったので慌てて譜面管理ファイルを調べてみました。
そうしたら、ありました!「金井学園歌」という曲を服部正が作曲していました!

歌詞を見ても「ふくいこうだい」「ふくいこうこう」とそれぞれの学校の名前も入っているので間違いありません。
本日の試合をした福井工大福井高校には高校としての校歌があり、今日はその校歌が流れていましたが、そもそものホールディングカンパニーとも言うべき「金井学園」の歌を作っていたので、考えてみると今日は服部正ゆかりの学校同士の戦いだったようです。
福井工大福井高校の皆さん、是非仙台育英高校の分も含めて頑張って頂き、次の試合も勝ち進んで行ってください!

服部正のテレビ出演(クイズ番組?!)

服部正はNHKから多用されていたので、様々な番組の音楽だけでなく出演の機会もありました。
一番長かったのは初代の「あなたのメロディ」の審査員として高木東六先生他と出演していたものでしたが、他局でも審査員として出ていたものがあり、どちらかというと専門領域のクラシックとは離れた音楽番組が多かったように思います。
やはりテレビ的には当時も「歌謡曲」の方が視聴率を稼げるので、どうしてもクラシック系の番組は「N響アワー」ぐらいしかなかなかなく、そこでは服部正の出番はありませんでした。

今回こんな写真を見つけました。

恐らくNHKのクイズ番組だと思うのですが、詳細は不明です。時代的には昭和30年代後半と思われますが、他の出演者を見ても古き良き時代に活躍された方のそれぞれ若かれし頃と思われます。レギュラー出演だったのかゲスト回答者だったのかは不明ですが、右の写真を見てもお分かりの通り皆さんの回答とは違う答えを出していて本人含め皆さんから笑われている所をみると、あまりクイズは得意でない扱われ方をされたかもしれません。

服部正は頼まれたら「いやだ」とは言わない性格なので、多少恥をかいてでもこういった番組にも出ていたのではないでしょうか。
まあ持ち前の「明るさ」もあったのでテレビ局も使いやすかったのかもしれません。
昔のほのぼのとした一景でした。

ところで、今日(3月17日)は服部正の誕生日であり、生誕109年のバースデイでした。

※ 本ページご覧頂いた方からご連絡を頂き、このクイズ番組は「それは私です」というNHKの番組であったことを教示頂きました。そして「ゲスト回答者」であったことまで教えて頂きました。
ご教示頂きました方に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
(2017/3/22)

 

東京国立近代美術館フィルムセンター殿へのご協力

本年の最初の投稿にて、戦前とはいえとても可愛いアニメ映画の音楽を服部正が担当していた事をご紹介したと思います。
実は昨年末に「東京国立近代美術館フィルムセンター」の方から本資料館にご連絡があり、「日本アニメーション映画クラシックス」という戦前のアニメの紹介WEBを作るにあたり、音楽を担当していた服部正の関係者に了解を貰いたい、というお話がありました。
そもそもここに出てくる「アリチャン」「あひる陸戦隊」がそんなカテゴリーの作品であるとは露知らず何気なく譜面を袋に入れていたので、この話でこの作品の素性が分かった事は大変な朗報でした。
そしてこの度正式にWEBが公開されたというお知らせを頂き、今回ご紹介するはこびとなりました。

作品の紹介は当館「一般曲-戦前・戦中編」の頁でご覧いただければと思いますが、まずはこのWEBページについてリンクを貼らせて頂き、皆様にも是非ご覧になっていただこうと思っております。

どちらも15分もかからない小品ですが内容はひじょうにしっかりしており、現代社会においても十分情操教育に使える内容ではと思います。

これが今年最初の投稿の「予告編」の本編でした。

産業能率(短期)大学校歌自筆譜の寄贈

小生が会社生活の中で「大学」というものの接点があったのがこの産業能率大学でした。一つは自分の企業研修の中でのこの大学の先生のクラスがあったこと、そしてもう一つは自分の仕事としてお客様向け研修会企画の際にゲスト講師として招聘させていただいた事。そういった意味では非常に個人的にも親近感のある学校です。その産業能率大学の前身である「産業能率短期大学」の校歌を作ったのが服部正であった事は、譜面の整理をしていた時に分かった次第です。
あるとき「JASRAC」から電話を頂き、「産能大の方が校歌の譜面がないか問い合わせが来ている」との連絡を受け、それならばちょうど自筆譜寄贈の活動があるので個別に連絡を取る事にし、今回の寄贈に繋がりました。

風の強い2月のある日、自宅からバスを乗り継いで産能大がある等々力(と言っても駅で言えば自由が丘が至近)まで行きました。交通事情が不安だったので早めに出発したのですがことのほかスムーズであまりにも早く着き過ぎたため、近くのファストフード店でしばしコーヒータイム。

定刻前に学校に着き、出迎えて頂いた方に応接室に案内されましたが、その応接室に入ると「校歌」がBGMで流れ、壁に目をやると「校旗」と「自筆譜寄贈式」と書かれた紙が物々しく貼られており、これは何か大ごとになりそうな気がしてきて、ちょっと緊張してきてしまいました。

応接に貼られた校旗と寄贈式の紙!

ほどなく幹部の方々(学長様、副学長様他)写真撮影の方も含めかなりの方々が応接室に入られました。
3月に横浜のみなとみらいホールでパイプオルガンにてこの校歌を演奏する事になったのですが、学内どこを探しても「校歌の楽譜」が見当たらず、オルガン奏者にお渡し出来るものが無くてお困りになっていたところで今回の連絡となったそうです。

まず「校歌」をパイプオルガンの伴奏で演奏するというとんでもなく光栄なお話に感動してしまいました。事前にピアノ伴奏譜のコピー譜面だけを関係者の方にお送りしておきましたが、今回はアンサンブル伴奏譜が比較的きれいな自筆譜として残っていたので、ピアノ譜と共に寄贈してまいりました。

時間帯がお昼でしたので昼食をご用意頂き、しばし関係の皆様と歓談をしながら楽しい時間を過ごさせて頂きました。
学長様は民間の大手コンピュータメーカご出身であり、小生も同じ業界出身なので非常に近しい話題等で話も弾みましたが、どうもこの資料館をご覧頂いているとのお話がご出席の方々から頂き、ありがたい反面「さらにきちんとやらねば」というプレッシャーがかかってしまいました!

最近はこの「自由が丘」という立地条件から女性の学生が増加しているそうですが、企業との関係も強いこの学校がまさに現代に求められている視野の広い若者の情操に期待を集めているのでは、とも感じられました。帰り際にキャンパスの一部も拝見しましたが、学生の皆さんも非常に落ち着いた表情で、良い雰囲気の中で勉学に励まれている姿を垣間見ることが出来ました。

帰り道は自由が丘まで徒歩で帰る事にし、学校でお見送りを受けた後しばらくして振り返ると、「高級住宅街の中の学び舎」というイメージの風景が浮かび上がりました。

住宅街の中の産能大

本当に学校からしばらくの間閑静でハイセンスな豪邸が続き、こんな所を通学している学生は気分も落ち着き朗らかになりそうな雰囲気を大変感じました。

産業能率大学の学長様、副学長様、関係の皆様、本当にありがとうございました。
ますますのご隆盛をお祈り申し上げます。

 

服部正と郵便局

服部正の自宅から歩いて1~2分という至近距離に郵便局がありました。
前にもご紹介したかもしれませんが、仙台育英高校の活躍に電報を打ちに行った郵便局ですが、当然局長さんとも非常に仲良くなり家族でのお付き合いでした。
(当時は今と違って局長さんは転勤が殆ど無く、地元とのお付き合いを重視していました。)
服部正もそもそも一般のサラリーマンと違い土曜日曜は無く、手紙を出しに行くたびに平日開いている局舎(といっても窓口3つぐらいしかない小さな郵便局)に入って一言二言会話して帰る、といった雰囲気でした。

その局長さんが気を遣って下さり、記念切手が発行されるたびにわざわざ服部家のために取り置きして頂いていました。(勿論その都度正規のお金を出して購入していました!)
当時はそういった記念切手は結構間断なく発行していたようであったため家庭内在庫は一般の切手よりも圧倒的に記念切手が多く、ちょっとした手紙だけでなく譜面の送付にも惜しげもなく記念切手を貼りまくっていました。
結局使い切れずに遺品として残されたものが結構ありました。例えばさきの東京オリンピック記念切手もしっかり残っています。

こんな切手もシートで残っていました。

これは1978年(昭和53年)に「ラジオ体操50周年記念」という事で発行されたそうです。
面白かったのは、ラジオ体操の曲を作った張本人が郵便局長の気遣いで取り置きされた切手を、特に意識せずに郵便局から買って持って帰っている光景を想像してみる事です。
そもそもこのラジオ体操は「逓信省(郵政省の前身)」の委嘱を受け作ったのですが、そういった記念切手が発行されるならば郵政省から何らかの話があったのでしょうか?それについては真実は分かりません。
確かに昭和53年の50年前は昭和3年で、当時はまだ慶応マンドリンクラブにいた学生の頃で最初のラジオ体操は当時の作曲家が作曲されたのだから服部正とは関係ないでしょう。

そんな事も気にする事もなく、郵便局から帰ってお茶を一杯飲んでからまた譜面にむかいに部屋に入って行く姿が彷彿とされます。
この切手はしっかり保管しておきましょう。