海の組曲(マンドリンオーケストラ曲)

服部正の残された譜面の中に「海の組曲」というのがありました。
マンドリンオーケストラで「海の組曲」というと「アマディ」というイタリアの作曲家が作った曲が有名であり、慶應義塾マンドリンクラブでも何回も取り上げられ、服部正も積極的にレコーディング等もしていました。
正直申し上げてよく内容も見ずに「その海の組曲の関係」と勝手に思ってしまっておりましたが、実は調べてみるともっと重い服部正自身の作品であることが判明しました。

海の組曲-朝-

実はこの曲は慶應義塾マンドリンクラブのために服部正が作曲したのですが、定期演奏会では一度も取り上げられていません。この曲の作曲時期が1943年(昭和18年)の夏前後であり、ちょうど太平洋戦争の学徒動員が発せられマンドリンクラブの定期演奏会も60回の1943年6月から1946年の61回まで開催が出来なかった時期であり、当初は「作ったのに戦争で演奏できなかったのでは?」と思っておりました。ところが「慶応義塾マンドリンクラブ七十年史」の年表に「1943年学徒出陣壮行大演奏会」の記事があり、その記事の最後に「この演奏会の最後の曲は「海の組曲」であった」と記載されていました。最初は「アマディ」の曲だとばっかり思っていたので慌てて慶應義塾のホームページを辿ってみると、確かに服部正作曲と明記されているパンフレットがアップされていました。

パート譜もよく見ると「2603.7.12」と書いてありますが、この2603年は「紀元」という皇紀のカウントで言うと西暦1943年であり、見事に合致します。

つまり慶應義塾が学徒出陣に際し学校として壮行のための大音楽会を開き、慶應義塾の音楽団体である「マンドリンクラブ」「ワグネルソサエティオーケストラ」「ワグネルソサエティ合唱団」等でそれぞれ演奏を繰り広げた事であり、この時に服部正/KMCがこの曲をこの演奏会で演奏した事になります。

ところが、これにもまだ謎が幾つかあり、これも服部正亡き後は解明が難しくなっています。
まず「この壮行会のために作ったのか?」
これは「No」である確率が高いです。というのもこのパート譜の日付は7月であり、11月の壮行会の有無が7月に決まっていたとは思えません。
そうすると何故「壮行会」で演奏され、以降の「定演」で演奏されなかったのか?
これは「謎」です。

またいくつかあるパート譜に面白い「白抜き譜」も見つかりました。

実はこのパート譜の裏にご覧の通りハンコが押されていますが、「大阪中央放送局文藝課」と刻印されています。
この「大阪中央放送局」は後のNHK大阪放送局となるのですが、これも謎で「なぜ東京の大学の学徒出陣の時の曲の譜面が大阪でパート譜化されたのか?」

色々調べていくと不明な点が出てきますが、特に以降演奏されなかった一つの憶測として服部正は戦争で亡くなった同胞や家族の事を思うと出陣した時に作曲した曲をまた演奏するに忍びなかったのではと考えられる部分もあります。
それは服部正の弟であり慶応義塾マンドリンクラブ出身でもあった「服部正之」がニューギニアで戦死した事、また終戦直前の東京大空襲等で様々な資産(譜面、楽器等)が消失した事等、戦争の傷跡がかなり大きく本人の心にも残った可能性は否定できません。

いずれにしろ「戦争」が引き起こした数々の悲劇、哀悼等を乗り越えた服部正、およびKMCの歴史の中で、この作品も存在していたという事が明確になりました。

組曲は「1.朝」「2.かもめの歌」「3.波に鍛える子供たち」「4.海鷲」の4曲です。