レク&コン抜粋(6)演奏会の企画と楽団作り

もっとお客様が喜ぶ作品を作ろう-そう決めた服部正は、作った曲の紹介、お客様に喜ばれる音楽の演奏を実現するために、どうしても演奏会をやらねばならず、そのために苦労して管弦楽団を調達しなくてはならない事にそうとうストレスを感じていたようです。ならば「オーケストラを作ってしまおう。」という事で、1937年当時の各大学の管弦楽部のOBを中心に声をかけて作った楽団が「コンセール・ポピュレール」というオーケストラであり、服部正もかなり力だけでなく私財を投入したとの記録が残っています。
この楽団は当時としてはそこそこ評判が良く、この写真を見ても結構お客様が日比谷公会堂にたくさん入っているのが分かります。

この楽団はそのまま戦争時代に突入しながらも、戦火の中を細々と演奏会を続け、疲弊した国民を少しでも癒そうという服部正の気概が伝わってきておりました。ただ戦中なので「横文字は良くない」との国からの指導を受け「青年日本交響楽団」と名前を変えさせられたという事だそうです。
しかしながら終戦後の金融政策により法人格を持っていない同楽団ではキャッシュの取引が出来ないという問題で存続が不可能になり、解散に追いやられました。
その後1950年代前半、今度は「広場のコンサート」と銘打って楽団を調達してダークダックス、ペギー葉山、中原美紗緒等の当時売れっ子だった歌手を呼んで演奏会をしばらく続けていきました。

これもそれなりにお客様も集める事が出来ましたが、この頃服部正はNHKの番組音楽作成等でかなり多忙な時期を迎え、さらにはやはり自分が組織した楽団では無かったので扱いも難しく、いつの間にか消滅してしまいました。
そして女性ばかりのオーケストラ「グレースノーツ」が1960年代後半に誕生し、服部正が事実上音楽活動を休止するまでそれなりに続けておりました。
これは音楽大学を卒業した腕の良い女性音楽家の働き場所があまりにも少ない、という声を当時国立音楽大学で教授だった時に聞いたのがきっかけとなっています。

演奏会も結成後十年くらいは演奏会や演奏旅行等行っておりましたが、一番の活動は様々なジャンルの曲のイージーリスニング化したレコードをビクター社からかなり出して頂き、今でもCDとして残っている物があります。

こうして服部正は母校のマンドリンクラブの定期演奏会等と並行してこういった「名曲コンサート」を約50年の間手を変え品を変え楽団を変えながら続けておりました。これが生き甲斐だったと言っても過言ではないでしょう。

レク&コン抜粋(5)最初で最後の「作曲リサイタル」

服部正が音楽家になる大きな存在が「菅原明朗」先生である事は以前も記載しました。この菅原門下の一人の作曲家として「深井史郎」という人間がおり、服部正もこの深井氏とは菅原先生のもとでよく付き合っていたとの記録が残っております。
深井氏は比較的人脈も広く当時のNHK関係者と様々なコネクションがあり、服部正もこの深井史郎氏の人脈を辿ってNHKの音楽部長との接点が出来ました。そこで現NHK交響楽団の前身である「新交響楽団」とのお付き合いも始められることが出来たようです。そこでの様々な経験等で作曲活動にも磨きがかかり、当時の時事新報社の音楽コンクール(現在は毎日音楽コンクールに継承されているとの事です。)に自身の作曲した「西風にひらめく旗」を応募作品として提出しました。時は1935年、会社を辞めてから4年後になりますが、今回は2等賞を得る事が出来ました。

当時からすれば、こういったコンクールの入賞者は音楽大学卒業生や欧米での留学経験者が常に席を占めていましたが、一般大学卒業者が受賞する事は極めて稀な事でした。
おりしも服部正はこの頃最初の結婚をし、生活を安定させる為にもさらに仕事を増やすために様々な活動をし始めましたが、その一つとしてこのコンクールでの成果を引っ提げて自分の様々な作品を世に問うべく「作曲家としてのリサイタル」を自ら企画立案推進をすることにしました。
何と前述の「新交響楽団」も担ぎ出し、今まで協演していただいた歌手や作曲家の友人の支援も受けながら、1936年4月15日日比谷公会堂で自ら指揮を振りながらこの演奏会は行われました。コンクールで入賞した「西風・・・」に新たに2曲を付けて「旗三部作」として発表、迦楼羅面、絵本街景色というマンドリン合奏のために作った曲のオーケストラ編曲等かなり本人も力を入れて作編曲をして臨んだところ、予想以上の入場者が得られ演奏会自体の採算も赤字でなく好評裡で終わったとの事でした。
しかしながら終演後の来場者の「お褒めの言葉」を聞きながら、どうも服部正は空虚な気分になったようで、自著にも下記のような言葉が記されています。

今日のお客はわたくしの個人的な関係で集まった人たちである。
もしこれがまったくの「ふり」の客で、入場料を払ってこういうものを聞かされたらどんな気持ちがするだろう。
これだけのことをするならばもっとお客の喜ぶもの、楽しむものを書くべきである。

そして最後にこう締めています。

もっと客観的な態度で聴衆の心の中にあるものを掴みだせるようになる事だ。そういう作者になろう。

そしてこれを最後に2度とリサイタルなるべきものをすることはありませんでした。

服部正はこれ以降の作風が「明るく、楽しく、親しみやすい曲」に大きくシフトチェンジすることになりました。
事実、服部正は管弦楽を中心に自らの意思で作曲をする事が殆ど無くなり、委嘱作品、様々な依頼に応える作曲家としての活動が本筋となっていきました。
演奏の面でも、それ以前(1936年4月以前)に作曲した作品を自ら取り上げる事はほとんどしませんでした。
例外として「迦楼羅面」は今に至っても卒業生だけでなく慶應の現役学生の評判が良かったこと、「絵本街景色」は慶應義塾マンドリンクラブ第100回記念演奏会に大幅に手を加えた事、「蝶々の主題による変奏曲」は作曲された当時「野心的作品」と言うよりも親しみやすい雰囲気の作品だった事が理由で再演が実現されています。

次回は、この「明るく親しみやすい音楽」の普及活動について触れたいと思います。

レク&コン抜粋(4)40日で終わった保険サラリーマン

服部正は1931年(昭和6年)3月に無事慶応義塾大学法学部政治学科を卒業、一般学生と同じく卒業論文も書いての卒業でした。

マークがついているのが服部正。左の文字は自筆。

服部正の父正平は当然の事ながら息子を普通の社会人にするべく、本人の意向を聞く耳もなく自分の勤めていた銀行の関連会社である生命保険会社にさっさと就職の道を作ってしまいました。
当時はかなり就職難の時代で、さらには大学生でも父親の意向は絶対的な風潮もあり、服部正もこの話に渋々従わざるを得ませんでした。
しかし一旦火のついた音楽家への道をそう簡単に諦められず、昼休みにこっそり会社を抜け出しレコード会社に行って作編曲のアルバイトをちょこちょこやったりしてはいましたが、やはり本業の圧迫でかなり憂鬱な毎日を過ごしていたことも本人の日記にしっかり書き記されていました。
母のヤスも服部正の気持ちを慮り父正平に陰で歎願していたとの事で、あるとき例の菅原明朗先生が服部一家を訪れ音楽家になる事への側面支援をしたりして、とうとう父正平も折れて音楽家になる事を許すことになりました。
この間40日だけその生命保険会社に市電を使って通っていましたが、ここで退職届を出す事になりました。
(2)でご紹介した「普通の保険サラリーマン」と言うお題は、こういった音楽、マンドリン、コンクール、菅原先生等との接点が無ければ、そのまま生保サラリーマンが続いていた、との考察になります。

そして音楽家としての服部正の生涯が改めて始まる訳ですが、これがやはり一筋縄ではいかず、特にこの業界は音楽大学出身者、海外の留学者等がこういった仕事を真っ先に取っていくため、一般大学を出た人間はなかなか音楽家として認められないのが現実でした。菅原先生のご紹介でビクターの専属アレンジャーからスタートしたものの様々な人脈を必死に作って仕事の確保に奔走していたようです。
そしてまた「コンクール」で大きなきっかけが出来ますが、それは次の回に。

レク&コン抜粋(3)-プロへの導火線となった作曲コンクール入賞

服部正は1925年に慶應義塾大学法学部政治学科に入学しました。
前回のお話の通りマンドリンに現(うつつ)を抜かしていたため第一志望の経済学部には入れなかったそうです。
そして翌年の12月に慶應義塾マンドリンクラブの演奏会を聞きに行き、入部する事を決断し1927年に正式に「マンドラ」というマンドリンより一回り大きな楽器のパートに配属されました。
その後間もなく当時の指揮者の宮田政夫氏が若くして病気で亡くなり、服部正が現役ながら後任の指揮者として推挙されました。以来60余年に亘る慶應義塾マンドリンクラブの常任指揮者の生涯がスタートしました。

そして独学で見よう見まねで作曲したマンドリンアンサンブル曲「叙情的組曲」が「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」という当時名だたるマンドリン合奏団の主宰者の武井守成男爵が催す「作曲コンクール」で1、2等無しの3等で入賞し、作曲家としての導火線に火が点いてしまいました。
さらにそこで審査員であった菅原明朗先生との運命的な出会いがあり、「音楽」というものが「趣味」を大きく逸脱し「職業」に向かって進行するきっかけとなってしまいました。
この菅原先生は服部正の唯一無二の師であり、作曲、和声法等「音楽」という物を全く専門的に習熟していない服部正を懇切丁寧に指導したと言われています。
こうして服部正もつつがなく大学生活を送っていきますが、いよいよ卒業の段になり一般企業の会社員を目論んでいた父服部正平との対立が表面化して参りました。
このお話は次の回に。

日吉南小学校開校50周年のお祝い

ちょうど2年前、当資料館発足後間もない頃に「直筆譜寄贈」の関係先訪問を始めたとき、ほぼ最初の訪問校としてこの「横浜市立日吉南小学校」を訪れました。
当時、校長様から「まもなく開校50周年なので是非その時はおいで頂きたい」とのありがたいお言葉を頂きましたが、あっという間に2年が経ち、今般その開校記念式典にお招きを頂くことになりました。

当日はやや小雨が降る天気でしたが、会場に到着すると校長様が受付にてお待ちいただいており、大変恐縮しながら席の所にご案内頂きました。直筆譜も大事に保管されており、当日皆様が見える所に展示も頂いておりました。
開式の辞の後国歌斉唱、そして服部正作曲の校歌を皆さんで歌いました。さすがに2年前お邪魔した時に聴いた子供たちの元気の良い歌声とはかなり雰囲気は違いましたが、先生や関係者の皆様も歌詞を見ながら一生懸命歌って頂きました。
一部の出席者の目の先には、会場の体育館の壁面に大きな木製の「校歌」のレリーフが飾られており、それを見ながらお歌いになっている方もいらっしゃいました。何と今回の50周年に合わせてお作り頂いたそうです。

そして来賓のご挨拶等が終わり、祝賀会に移りました。
実は大変失礼ながら祝賀会の存在を私もあまり認識しておらず次の予定を組んでしまい、残念ながら最後までお付き合い出来ませんでしたが、とても和やかで温かいムードで会は進んでおりました。

こうやって校歌をもとにお付き合いをさせて頂いたこと大変嬉しく思い、またその「校歌」を大変大事に扱って頂きましたこと、親族である私としても大変感無量となり心から感謝の念を禁じ得ませんでした。

日吉南小学校の関係の皆様、開校50周年、誠におめでとうございました。
50年に至るまでの関係の皆様のご尽力、ご努力に心より敬意を表したいと存じます。
そしてさらに60周年、70周年、そして100周年に向けて益々の繁栄を心よりお祈りしたいと存じます。
是非、末永く「校歌」とお付き合い頂く事も合わせて祈念致します。

レク&コン抜粋(2)-父の単身赴任が無ければ服部正は普通の保険サラリーマンだった!

服部正の父「服部正平」は全国に支店網を持つ銀行の銀行マンでした。当然現在と同じように「転勤のリスク」は常に持っていました。
正平が大阪に勤めていた時に家族も全員大阪で過ごしていましたが、「門司に転勤」の命を受けてさすがに動揺し、当時中学生だった息子「正」や弟の教育の事を考え不本意ながらも単身赴任を決意、家族は皆東京に戻ることになりました。
ここで服部正にとって大きなターニングポイントが生まれました。

1.ミッション系の青山学院中等部に転校
毎日礼拝があり、讃美歌を歌う生活となったため、西洋音楽の起源とも言える「宗教音楽」に始終接する事になりました。これによって服部正の「クラシック系音楽」愛好に火が点きました。
2.特に趣味のない単身赴任の正平がオフの時間潰しに何と当時流行っていた「マンドリン」を購入!夏休みに家族で陣中見舞いに行った時に服部正が目ざとく見つけ、門司滞在中にマンドリンの虫になってしまいました。

この2つのきっかけが服部正を音楽の道に進ませる「火付け役」になってしまいました。お題にある「保険サラリーマン」についてはこの後でその経緯を書きますが、少なくとも父正平は息子たちに良い教育を受けさせて一流の会社勤めをすべく、自身の勤めていた銀行の関連会社の保険会社に就職を斡旋すべく手を打つつもりでいたようであり、この時点ではこれらの動きは単なる「趣味の世界」から逸脱するとは夢にも思わなかったようです。

 

レクチャー&コンサート 講演内容の抜粋紹介(1)同世代の音楽家は?

11/5のレクチャー&コンサートでの前段のレクチャーでは意外とKMCのOBの方でもご存知ない事も多少あったりしたので、そこそこのご評価を頂いたのではと思っております。

これからしばらくの間、この講演内容をかいつまんでこの投稿でご紹介して参ります。

まずこのレクチャーの構成からご紹介します。

1.音楽家 服部正が誕生するまで
(音楽家になるきっかけと作風変遷の経緯)
なぜ服部正が音楽を仕事にする事になったのか?
副題では「父正平の単身赴任が無ければただのサラリーマンだった!?」として、どんなイベントが一般大学にいながら音楽家への道に繋がったのかをご紹介します。
2.服部正の素顔
(「音楽」と離れた時間の服部正)
まず服部正の自宅での状況を、自室のレイアウトを見ながらご紹介、趣味や食事、家庭の状況も簡単にご説明します。
3.服部正の主な作品
(当日演奏曲目を中心に)
ジャンルごとに分けて主な曲を列挙致します。
そして当日演奏した曲目を簡単にご紹介します。
4.終わりに
時期による服部正の音楽家としての動き、そして長寿で音楽活動を続けられた要因はなんであったかを最後に纏めとしてお伝え致します。

今回は、最初の部分だけ簡単に

服部正の生年(1908年)と同じ音楽家は?という事でスタートしました。

何といっても「ヘルベルト・フォン・カラヤン」と1カ月しか違わない誕生日であったこと、そして「朝比奈隆」氏とも同年生まれである事をご紹介、作曲家ではアメリカの「ルロイ・アンダーソン」、フランスの「オリビエ・メシアン」が同じ1908年生まれでした。
日本の作曲家は?という事で調べましたが1908年生まれではそれほど著名な方はいらっしゃらず、枠を広げて「同級生」(服部正は3月生まれで早生まれなので、1907年4月以降に生まれた作曲家)で調べると、奇怪なことが判明。
服部良一(1907年10月生)、レイモンド服部《本名「服部逸郎」》(1907年12月生まれ)が該当する事がわかり、奇しくも「服部」ばかりで当日の講演では会場からも失笑が!
もちろん「血縁関係はそれぞれ一切ございません」という事だけしっかり覚えていただきました!

次回は「父正平の単身赴任が無ければただのサラリーマンだった!?」についてご紹介します。

レクチャー & コンサート 無事終了!

昨日の音楽三田会主催のレクチャー&コンサートにご来場されました皆様、本当にありがとうございました。心より御礼申し上げます。

天気も良く3連休の最後の日にわざわざおいで頂き恐縮でしたが、ご来場人数は80名前後と聞いております。
当日は私の講演を40分、マンドリンのコンサートを1時間弱で終えました。

講演ではこのHPで記載した内容だけでなく、ちょっと面白いお話もさせて頂き、皆様からそれなりのご評価を頂けました。(自分自身「ほっとした」のが本音です。)

演奏では肝付様、呉様によるマンドリンとピアノの演奏、そして慶應義塾マンドリンクラブ三田会の皆様(指揮小穴様)の演奏の2段構えで服部正の曲をお届け致しました。

このけやきホールは故古賀政男氏の美術館の一連で作られており、古賀先生と言えば明治大学マンドリンクラブで有名であり、そのマンドリン(プレクトラム楽器)がよく響くように設計されたホールとの事で、人数的には26人の編成でしたが実に朗々と音が流れる素晴らしいホールでした。ご来場客の中で慶應義塾マンドリンクラブOBがかなりの比率でしたが、皆さん演奏を非常に楽しんで頂けたと思っております。

この前段の講演についてはこれから少しずつこのHPでも紹介して参ります。

 

11/5 音楽三田会 レクチャー&コンサート 締め切り

11/5に予定しているレクチャー&コンサートの無料入場整理券の申込を終了いたしました。お申込みされた方、関係各位には心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

当日は今の所天候は「晴れ」との事ですので、是非間違いなくお越しください。
トランプ大統領来日の当日なので各所で規制や検問等行われる予定であり、想定される以上にアクセス時間がかかるかもしれませんので、お出かけの際はご配慮下さい。