マニアックな楽譜集め、若き日の服部正

まず皆さんはこの作曲家をご存知ですか?
「マリピエロ(MALIPIERO)」
ご存知だったら相当のクラシックファンか、さもなくば究極のマニアックなコレクターと言えるでしょう。
服部正の遺品の中に、若き日に購入したおびただしい譜面(スコア)があり、当然ベートーヴェン、モーツァルト、チャイコフスキー等の管弦楽作品が多数ありましたが、その中に私も今まで聴いたことのない「マリピエロ」という作曲家のスコアが4冊も残っていました。

まだ自分も若い頃に父のスコア群をちょこちょこ拝見していたのですが、「マリピエロ」という作曲家のスコアが4冊もある、というのは他の有名な作曲家のスコアでも2~3冊という蔵書を考えるとさぞかし有名な作曲家だったのかな、と勝手に当時は思っていました。しかし年を取るにつれ、いつまでたってもその「マリピエロ」という作曲家の作品と出くわした事もなく、いったい何者か?とだんだん思ってまいりました。

マリピエロは1882年から1973年まで約90年もの生涯を送ったイタリアの作曲家ですが、正直言ってヒット作はほとんど無く「知る人ぞ知る」作曲家です。なぜこんな作曲家のスコアが4冊も服部正のところにあるのか、これまた「謎」です。
可能性があるのは「菅原明朗先生」との出会いから様々な作曲家の作品の話を聞き関心が高かったものを購入した、と考えられ、そうすると菅原先生の見立てのカテゴリーがかなりマニアックであったのでは、と想像できます。
またこの4曲とも作られたのは1920年前後であり、恐らく購入したのが1920年代後半と思われるので「出来立てのホヤホヤ」状態の作品のスコアが日本に輸入されていて、食指を動かした可能性も高いと思われます。

さて、はたしてどんな曲なのか?スコアを見ても近代・現代作曲家なのでなかなか頭の中で音が再現できません。何とかCDを見つけ、こういう場合は「百聞は一見に如かず」ではなく「百見は一聞に如かず」がベストと思いスコアを見ながら聴いてみました。

正直言って「有名になりそうな曲」とは思えず、何となく掴みどころのない、でもそれほど「現代的な不可解」では無い曲でした。しかし当時はこんなCDはおろか、レコードだって有名な曲しかない時代ですから、こんな曲のスコアを買ってうつつを抜かしている服部正は、やはり「マニアックだった」のかもしれません。

同じように服部正のスコア保存譜では「オネゲル」や「ルーセル」といったフランス系作曲家や、有名な作曲家でもマイナーな曲(例えばサン・サーンスの交響曲第1番)等があり、若き日は相当菅原先生を始めとして色々な影響を吹き込まれた可能性がありそうです。
また、学生の頃の日記でも「新響(現N響)の演奏会を聴きに行った。やはりオネゲルは良い曲だ」との記載が発見され、この若さで「オネゲルに心酔」しているのははっきり言って相当「ませた」とか「偏屈」な学生と言われそうですね。

 

 

訃報 作曲家 横山菁児先生

本日(2017年7月11日)作曲家の横山菁児先生がお亡くなりになったとの報を聞きました。7月8日肺炎にてご逝去されたとの事です。(享年82歳)
横山先生は服部正のそれほど多くない教え子の一人であり、広島に居を構えてご活躍でした。服部正の「お別れの会」ではわざわざ広島から東京までお越しいただき、また昨年のBS朝日放送の「黒柳徹子の『コドモノクニ』」収録に際しては多大なるご協力を頂き番組でも過分なお言葉まで頂戴致しました。
横山先生と言えば「聖闘士星矢」の音楽であり、他にもアニメ音楽を数多く輩出していらっしゃり、学校の校歌も各地で手がけていらっしゃいました。
また、最近好調の「広島カープ」の応援歌の一つ「燃える赤ヘル僕らのカープ」を作曲されてもいらっしゃり、広島の郷土愛も強く持たれて地元の音楽振興にも一生懸命お尽くしになられた方でした。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

追伸
訃報によりお誕生日が「3月17日」と分かり、なんと服部正と全く同じ誕生日でした。天国で服部正とまた楽しく会話しているのではないかと存じます。

ラジオ体操第一が出来るまで

もうすぐ子供にとっては楽しみな夏休みです。夏休みと言えば何といっても「ラジオ体操」のスタンプ集め、というのは昔から有名でしたね。

ところで現在の「ラジオ体操第一」というのは何代目だと思われますか?
実は「三代目」なのです。
初代は昭和3年(1928年)11月にNHKにより東京でまず放送され、そして翌年全国放送となったそうです。この時の音楽は「福井直秋」という作曲家が作った曲でした。
とはいうものの、そもそも「ラジオ体操」のために作ったものでなく「可愛い歌手」というピアノ曲が「体操の伴奏として相応しい」という評価を得て採用されたとの記事があり、今では「可愛い歌手」という個別の曲としてではなく「初代ラジオ体操第一」として残っています。福井直秋氏は作曲家で武蔵野音大の創設者とされており、服部正以上に全国の学校の校歌等を作曲されているようです。

通算17~8年間続いたこのラジオ体操第一もその後太平洋戦争に敗北したことで終止符を打ちました。米軍GHQが「軍国主義的号令付の体操」をラジオで放送することに難色を示したことから、「もっとリズミカルな優美な体操に切り替えて長い歴史を持つこの放送を継続させる方針」を当時の逓信省、文部省、厚生省等が立て、そして第2代の「ラジオ体操第一」を作り1946年4月から放送されました。その時の曲が服部正の作品であり、何と当時のガリ版刷り譜面が遺品の中に残っていました。

ところが当時はまだ敗戦直後で人心も安定せず食糧難も相まって国民が体操する状況になく、体操自体も難しいとの不評で翌年の1947年8月に放送が取りやめになってしまいました。第2代の寿命はたった1年と4か月でした。

そして1950年頃に日本国内の生活も安定してきて「ラジオ体操の復活」を望む声がまた盛り上がってきたので、この2代目の失敗を反省しながら作られたのが3代目の「ラジオ体操第一」です。この曲も引き続き服部正が担当し、1951年5月に放送開始となってから実に今日まで66年毎日放送は続いています。恐らくまだこのまましばらくは続くのではないでしょうか。

ところでこの歴史をしっかりとどめているCDがあり、小生の自宅の近隣の図書館で発見しました。

このCDはラジオ体操75周年で作られたという事なので、恐らく2003年頃に発売されたものではないかと思われます。
早速この「第2代」を譜面を見ながら聞いてみましたが、音楽的にはしっかり完成されている曲でした。冒頭はマーチ風ですが途中からワルツになり、このワルツが実にヨハン・シュトラウスっぽい音楽で、聴いていても楽しくなってしまいそうな曲です。確かに戦後直後にこんな曲をやっても体操する気にならなかったかもしれませんが、もう少し後であれば十分採用されていた可能性があります。

今でも学校だけでなく会社や工事現場でも漫然と流れているこの「ラジオ体操第一」も、誕生までこれだけの紆余曲折があったのかと思うと歴史の重みを感じてしまいます。

今回の内容はこのCDのブックレットと先日お邪魔した「NHK放送博物館」の放送年鑑等からの貴重な情報を使わせて頂きました。ありがとうございました。

追伸
この曲についてのお問合せ(2次使用等)が当館に来ることもございますが、この曲の著作権はすべて「かんぽ生命」が所持しており、「かんぽ生命」のHPにもこの曲の取り扱いについてのご案内が書かれていますので、気になる方はご覧ください。

 

奥が深い!NHK放送博物館での調査

港区の「虎ノ門ヒルズ」のそばに「NHK放送博物館」があります。そもそもNHKが初めてラジオ放送を開始したのがこの場所であり、本来であれば「NHK放送博物館」のそばに「虎ノ門ヒルズ」がある、と言わなくては失礼にあたるのでは、と思ってしまいます。
服部正は就職キャンセル後から間もない時期にNHKとの接点が芽生え、特に最もNHKで活躍したのは戦後から昭和30年代の約20年間ではないでしょうか。
この放送博物館には資料室もあり、何か服部正にまつわる情報があるかもしれないという事で以前お邪魔し、その際学芸員の方が親切に相談に乗っていただけました。
という事で日を改めてお邪魔しました。
駅で言うと「御成門」が至近と思われ、そこから慈恵医大を横に見ながら歩いていきます。放送博物館は「愛宕山」の山頂にあるとの事で覚悟して行ったのですが、幸い御成門側から来るとエレベータでの来館案内になっており、虎ノ門方面からは距離もあり坂も上がらなければならないので、ちょっと得をした気分です。
トンネルの横の何となく密かな場所にそのエレベータがありました。

早速乗るとゆっくりと上昇、「2階に着きました」とのアナウンスが流れますが高低差は2階どころではなく5~6階分はあるのではないでしょうか。

そして入館。(無料!) 目指す資料室は4階にあります。

NHK放送博物館入館ガイドマップ

博物館自体は9:30開館ですが資料室は10:00開室なので、早めについたので3階のヒストリーゾーンを一回り。「ラジオ・アーカイブ」というコーナーがあり、そこで「ヤン坊・ニン坊・トン坊」を選ぶとディスプレーに収録現場の写真が映し出され、奥で指揮棒を持った服部正が立っていました。(写真撮影不可のため、ぜひ来館されたらご覧下さい。)気を良くして資料室に伺いました。

前回にご相談した事に対するお返事をメールでも頂き、また司書の方も内容をご了解いただいていたのでスムーズに資料の閲覧が出来ました。

年鑑や年史のような記録物が主でしたが、びっくりしたのは「人名」の索引が用意されており、大量の資料でも検索が非常に容易に出来ました。
やはり相当な資料が保管されており、こちらで持っている譜面以外の曲の存在がいろいろ発見されたり、初めて見るスナップ写真等もあったりして大きな成果でした。
こちらから用意していた番組はほとんどが昭和30年代前半であり、この頃が服部正が最ものっていた時期と思われます。
また「音楽夢くらべ」という番組にもレギュラー出演し、その番組が後に「あなたのメロディー」という番組に変っていきながらもしばらくレギュラー審査員を続けてやっていた事も分かりました。

これは1回では済みそうに無く、とりあえず今回は年史等の情報をノートに書き写し、再度こちら側も準備して来訪することにしました。やはり奥が深いです。

この情報をもう少し整理して別のページでいずれ披露していこうと思っております。

今回の訪問にあたってご支援いただきました学芸員の方、司書の皆様、ありがとうございました。引き続きよろしくお願いいたします。

P.S
この放送博物館の横に「愛宕神社」があり、その脇に有名な「出世の石段」があります。以前会社の業務で幹部と近くに来た時に連れられて来訪したのですが、出世の石段を上がらずに横の坂道経由でお参りし、帰りに石段を降りるというルートになってしまいました。(それが我が人生にとって良かったのかどうかはまだ判断できていませんが、、、)
高所恐怖症の方は「降りる」ルートは控えた方が良いかもしれません。

結城西小学校へ自筆譜の寄贈(+旧「玉岡幼稚園歌」自筆譜寄贈)

「結城」という名前でまず出てくる言葉は「紬」でしょう。この結城市にある結城西小学校の校歌は服部正が作りました。
今まで様々な学校にお邪魔しましたが、今回の結城西小学校の校歌ほど作曲依頼から制定までのプロセスがはっきりしている例は少ないと思われます。
慶応義塾マンドリンクラブ出身でこの結城紬製造卸業経営者で地元の名士である方の関係でこの結城西小学校の作曲依頼を頂戴しましたが、服部正も人縁、地縁を大事にする気質なのでかなり思い入れを持って作曲したと思われます。
まず譜面を見ても曲の最後にはっきり年月日が書かれて「作曲完成」とまで記載されている例はあまり多くありません。後で聞いた話として「わざわざ小学校まで来て校歌の指導までして頂いた」との事でしたが、服部正はこういった関係を非常に大事にするタイプなので、恐らく嬉々として結城まで行ったに間違いありません。

 

お伺いする日の朝、外はあいにくの雨。でも小学校の皆さんが心待ちにされているとの気持ちがやり取りさせていただいたメールからも分かり、こちらも意気揚々と家を出発しました。そうすると一旦雨が上がり、これは上々の出だしです。

小学校からは気遣いを頂き結城市にほど遠くない隣県の「小山駅」まで迎えに来ていただけるとの申し入れがありましたが、折角茨城県の結城に行くのに「結城駅」をパスして栃木県までおいで頂くのは失礼と思い、小山で水戸線に乗り換え結城まで伺い、小学校の教頭先生達と落ち合う事が出来ました。
小学校に向かう途中で「弘経寺」という結城市では由緒あるお寺に案内されましたが、とても威厳があり落ち着いた趣の気持ちが休まるお寺でした。
教頭先生にお伺いしたところ、この結城市には非常にたくさんの寺社があり、この弘経寺は結城市でも最も権威があり有名なお寺という事でした。
(この時も雨が上がり、ラッキーなタイミングでした。)

弘経寺本堂

それから小学校に向かいましたが、校長様だけでなく結城市の教育委員会の幹部の方々、そして前述の結城紬老舗の現社長までお揃いでお迎え頂き、大変恐縮してしまいました。(その社長様は以前「結城西小学校」のPTA会長も歴任された方でした。)
早速譜面の贈呈や歓談を致しましたが、実は今回の訪問準備の段階で大きな発見があり、服部正が作曲した「玉岡幼稚園歌」の「玉岡幼稚園」がここ結城市立の幼稚園だったのが民間に移管され現在は無くなってしまった、との事でした。今回別袋で一応用意させて頂きお持ちしたのですが、市の教育委員会の方にこの譜面をお渡しすることに当日決まり、こちらも不透明な案件が一つ明確になりありがたい話となりました。

そして校長様のお計らいで1年生が校歌を歌う場を設定していただき、その歌声を聞かせて頂きました。とても素朴で素直そうな1年生が精一杯の大声で校歌を歌っていただける姿を見て大変感動し、また元気を頂くことが出来ました。
教室から退出しようとすると生徒の皆さんが寄ってきて「ハイタッチ」して頂いたのがとても可愛らしく、こちらもとても嬉しく思って喜んでしまいました。
(今日早速結城西小学校のホームページにこの光景がアップされていました。感謝です。)
その後昼食を頂きながら歓談、そして学校を後にして結城紬の社長様に「つむぎの館」をご案内頂きましたが、その製法や歴史について非常に分かりやすくご教示頂きました。(本当は当日は休館日だったのですが、特別なお計らいでご案内頂きました。誠に恐縮です。)

結城市「つむぎの館」

今回はいつも以上に「人の縁」「地域の縁」という事を肌で感じ、さらには元気いっぱいの小学1年生との接点も実現し、天気は曇りでも気分は「快晴」でした。
校長様、教育委員会の皆様、結城紬関係の皆様、そして小学校関係の皆様と何よりも歌ってくれた1年生の皆さん、本当にありがとうございました。

追伸

今回は肝心の小学校殿の画像がほとんど撮れずに失礼いたしました。上記の通りこのプロセスは「結城西小学校HP」にアップ頂いておりますので、ご参考までご覧ください。

祝!来訪者のべ5,000人突破!!

皆様のご支援のおかげでこのほど本資料館来訪者がのべ5,000人を超えました。
(6/8 21:00の時点で5,090人)ページの訪問も12,000ページを超え、一人当たり平均2ページ以上ご来訪頂いているという結果でした。
2015年からこのホームページを立ち上げ、実態としては約1年半強ですが、これだけ早くこの数字に到達するとは思っておりませんでした。
特に最近は慶應義塾マンドリンクラブ出身者だけでなく様々な分野の方に来訪していただき、コメントや励ましのお言葉を頂いたりして大変感激しております。
5,000という数字は他の有名サイトからしてみれば余りにも貧相な数字かもしれませんが、個人零細運営のサイトからしてみれば大きな通過点です。
前にも記載させていただきましたが、この資料館がきっかけでBS朝日放送殿のご対応、東京国立近代美術館フィルムセンター殿とのコラボレーション等の大きな動きや、個別の人的接点の拡大等成果は大きいものがあると思っております。改めてITによる情報発信の効果の偉大さを再認識した次第です。

今後も地道に様々な取り組みを進めていきたいと思っております。皆様からのご意見等も本資料館運営において大変貴重なファクターですので、今後もよろしくお願いいたします。改めて御礼申し上げます。

どうもありがとうございました。

P.S. 一般の記念館等ですと「5000人目の来館者に記念品」というような事もやっているようですが、こちらではどなたが5000人目かも分からず(気が付いてみたら5000人超えていた、というのが実態、、、)誠に恐縮ですがこういったイベントはご容赦頂こうと思っております。(?!)

 

国立国会図書館~「れきおん」での服部正音源

先日の「業間体操」の話題で「自然美運動」というキーワードが気になり調べてみると「国立国会図書館に何らかの情報がある」という事を知り、ある日国会図書館のホームページを調べてみました。そうすると「れきおん」というコーナーがあり、歴史的音源(1900~1950年代のSPレコード音源)のデジタル化という画期的なサービスが該当するようです。


   国立国会図書館「れきおん」のページ

早速「服部正」で検索すると何と326件もヒットしてしまいました。ところがすべて「館内限定」でネット経由での試聴が出来ないので、国会図書館まで出かけようとアクセス等調べてみると、「持ち込める携行品はB5以下の透明の袋に入れて、後は手荷物を預けて、、、」等結構入館に手間がかかりそうなことが事が記載されており、ちょっと足がすくんでしまいました。
ただ日本全国各地にある「歴音参加館」として認められている図書館でも視聴可能と書いてあり、品川図書館でも扱いがあったので、まずはそこに行ってみる事にしました。

品川図書館では丁寧に案内され、カウンターに設置されたパソコンにヘッドホンをつないで頂き試聴出来る態勢になりました。とても326曲を聞くだけの時間と体力は無かったのであらかじめ候補曲をいくつか決めて行きましたが、とりあえず1回1時間との指定だったので早速アクセスして聞き始めました。

まずびっくりしたのは1950年代以前というのにデジタル音源化された音が結構クリアーで良い音だったことです。そして自然美運動だけでなく様々な曲(南極観測隊の歌、はとぽっぽ体操、初代ラジオ体操第一等)を次から次に聞いていきましたが、服部正の作品がこのような形で残っていることが大変うれしく感動してしまいました。
ただ、残念なのは当然ながら音源のコピーが出来ないので、聴いた音楽をどこまで自分の記憶に留められるかという課題があります。もうこれは気に入ったら「図書館に通うしかない」ようですね。(結構たくさん聴いたので、どれが「自然美運動」の曲だったか記憶が曖昧になってしまったのが実態です。)

とりあえず作品としての目ぼしい物を大体チェックしたのですが、どうしても気になったのが「1930年代に録音された慶應義塾マンドリンクラブの演奏」というのがあり、それが何と20曲以上もリストに載っているのです。ほとんどがいわゆる「名曲のマンドリン合奏用への服部正の編曲」で、これも時間が許す限り片っ端から聴いてみました。演奏も当時としてはプロ並み以上で非常に良かったと思いますが、何よりもこの音の先に恐らく指揮をしている20代の服部正の姿があると思うと非常に興奮してきてしまいました。

本ページをお読みになっている皆様もぜひお時間があれば、この「れきおん」で服部正の音楽を聴いてみてください。「れきおん」のページからお近くで聴ける各地の図書館の案内にも飛べますので、そこで調べれば東京の永田町まで行かなくても十分堪能できます。
ただ限られた時間での視聴なので、出来ればあらかじめこのページで聴きたい曲を選択して(メモに書く等)から赴いた方が良いと思います。さらには前述の通り「記憶に留める」限界があるので「体調を良くして」訪問することをお勧めします!!

朗報・埋もれた作品の出現!「自然美運動」~新宿高等学校「業間体操」

先日本HPご覧頂いた方からご連絡を頂きました。
その方は慶應義塾の要職におられる方ですが、東京都立新宿高等学校のOB会の幹部の方でもあり、何でも「業間体操」と呼ばれる体操の音楽について使用のご相談という事でした。
そもそもの原曲は「自然美運動」という曲だそうで、調べてみると国立国会図書館のライブラリにしっかり入っており、作曲・編曲も「服部正」と明記されていました。とは言うもののその「自然美運動」「業間体操」と言われるものについて当方は全く存じ上げず、しかも残存譜面の中にもそのような名前のものが無く、正直言って「狐につままれる」状態でした。

後日その方とお会いさせていただきましたが、この「新宿高等学校創立100周年記念行事」としてその業間体操の動画について音楽の使用許可のご依頼でした。こちらとしては事実を知らない大変恥ずかしい状況であり大変恐縮してしまい、当方がもちろん使用についての異存は全く有りませんので了解を即答させていただきました。(何とYouTubeでもその音楽付き動画がしっかり入っています!!)
作曲が昭和28年ということだそうで、ちょうど現在の「ラジオ体操第一」ができたのがその2年前の昭和26年だったので、このころは服部正も体操音楽のフィーバー時期だったのかもしれません。

先日その新宿高校のそばを通ったので正門を拝見してきましたが、新宿駅からほどない場所でありながら、すぐ裏に「新宿御苑」があるという環境の面でもうらやましい場所です。しかもこの高校は東京都立高等学校の中でも進学校として名高い高校の一つと言われており、そんな由緒ある学校の貴重なイベントに服部正がかかわることが出来たのも大変光栄な事です。

新宿高等学校メインエントランス

新宿高校殿100周年は2022年(平成34年)という事らしいそうです。盛会をお祈り申し上げます。
ちなみに文中のYouTubeについてリンクを貼ってみました。
(音楽を聴くと「間違いなく『服部正』の作品」と分る曲想でした!)

こうやって考えると「服部正の譜面管理の杜撰さ」で様々な学校、法人に対して大変失礼な対応をしていたかもしれず、改めてこの場を借りてお詫び申し上げたいと思います。「うちの学校(会社)も服部正の曲なんだけど、、、」という方がいらっしゃったら、大変恐縮ですが情報を頂けると幸いです。(本当に恥ずかしい話ですが、、、)

服部正、譜面修正術の荒技!

服部正は以前より作曲の際は「鉛筆」をほとんど使わず、モンブランの「万年筆」を常用していたことはこのホームページでもご紹介しました。
しかしながらやはり「人の子」なので間違える事も往々にしてあります。当時は今のような「修正液」「修正テープ」や「修正ペン」なるような便利な代物は勿論ありません。ではどうしたか?
「早書き」のレッテルを貼られている服部正としては時間節約のためにかなり荒技をやっていました。
まずサンプルとして「バス通り裏」(第49回~54回)のアンサンブル譜面をご紹介しましょう。このほんの数ページでも「修正術」が多用されていることが分かります。

まず初っ端の第1小節目からピアノのパートの部分(赤丸)に何となくうさんくさい音符が並んでいます。これは多少の音の違いなので強引にペンで直しながらも、恐らく実際のスタジオの音取りの段階で服部正自らが口頭で修正指示もしたのではと思います。

次は「砂消し」というインクの「消しゴム」的な道具の登場です。(赤丸部分)

これはインクを削ると言うよりも「紙を削る」ので何回も同じ場所で使ったり裏側の同じ位置の譜面にも使用したりすると紙そのものが破れてしまう恐れがあるだけでなく、結構消すのに時間と手間がかかるので、あまり服部正は多用していなかったようです。この譜面でも手間のわりにきれいに消えていない事が分かります。

上下に空いた五線部分があるとそこにスイッチするやり方もあります。

この赤丸の部分はフルートパートですが最上段に書かれていたのでたまたまその上の行が空いていたりすると使える芸当です。(それよりも赤の矢印の交差が気になりますが、、、)

そして服部正の最も良く使っていた芸当「切り貼り紙」が登場します。

この赤丸部分を良く見て頂くと一番左側の約1小節分が最上段から最下段まで切り貼りされていることが分かります。この譜面はちょっと特異な例で普通は1~2段だけの切り貼りが結構多用されています。服部正はこのような対処をするために同仕様の白紙の五線紙の予備を常に持っており、間違えた時にそそくさと切り貼りし、その上で修正後の譜面を書いているようでした。
服部正の執務机には「五線紙」と「万年筆」と「インク」だけでなく、「はさみ」と「糊」も必須アイテムであったようです。
(この写真では「はさみ」も「糊」も隠しているようですが、、、)

わりと健啖家の服部正

服部正は日頃お酒をほとんど飲みませんでしたが、食べる事に対しては非常に旺盛であり、またあまり好き嫌いを言わずに何でも口にするタイプでした。
家庭では妻の冨士子が気を遣って野菜中心で動物性タンパク質としては鶏肉、魚をメインにした料理を作っていました。ただ、仕事で出先での飲食も当然増えてきますが、特に演奏旅行や放送局の出張録画等があると、そこの現地での郷土料理等も提供されますので、そういったものも積極的に摂っておりました。

この写真はどこか遠隔地での仕事の合間と思われます。ビール瓶もあるので仕事終了後でしょうか。

服部正は「すき焼き」は結構好きで、この写真を見ても喜んで頬張っている姿が分かります。
また、この写真はオーストラリアのメルボルンでの現地の方たちとの野外バーベキュー大会の一コマです。慶応マンドリンクラブのオーストラリア演奏旅行中でした。

当然「オージービーフ」のステーキですが、こういったものもペロリと食べてしまいました。
慶応マンドリンクラブでマレーシアに行った時も、立食パーティでははっきり言って「辛くない料理」を探すのに非常に苦労した覚えがありますが、服部正はそんな事も気にせずにむしゃむしゃとマイペースで色々な物を食べていました。
考えてみれば、このオーストラリアも67歳頃、マレーシアに至っては70中盤という当時からすれば「後期高齢」と言われてもおかしくない年ですが、この健啖家ぶりが連日の演奏会での指揮をするパワーに結びついているのでしょう。見習う面も十分ありそうですね。