服部正の唯一の自伝的著作「広場で楽隊を鳴らそう」の中で、彼が就職してすぐに辞めて音楽界に入った頃のエピソードがいくつか書かれています。
その中で当時の新交響楽団(現NHK交響楽団)との初めての接点ともなった自作の曲として紹介されているのがこの「管弦楽のための組曲」と書かれています。
そもそも、それまで服部正はマンドリン関係の曲はさておき、習作と言われるオーケストラ曲は作曲したものの、人前に披露できた曲はこの曲が初めてだったようです。
音楽家仲間が増えてきた頃にNHKの音楽係の青木氏と言う人と親交を持つようになり、これがきっかけで新交響楽団関係の仕事が徐々に増えてきたようでした。
ある時にこの曲をその青木氏に見せたところ、当時の楽壇の大御所と言われる、かの「山田耕筰」先生の所に持っていって頂き、当時年に1~2回ご自身が指揮する「邦人作品の夕」というラジオ番組に取り上げて頂くことになった、との事です。
服部正は自分の書いたオーケストラ曲が初めて実際のオーケストラによる「音」になった事におおいなる喜びをもち、興奮していた、とその著書には書かれていました。
曲は「プレリュード」「パストラル」「フィナーレ」という3曲構成ですが、山田耕筰先生は大変丁寧に練習して頂いたそうで、放送が終わった後も服部正や関係者を連れだって銀座のレストランに行く等、音楽の面だけでなく人間的にも「大人物」であった雰囲気だったそうです。放送された年月は昭和8年10月21日と明確に書かれており、服部正が25歳、音楽界に入って2年後の事でした。
この後で「西風にひらめく旗」を含む「旗三部作」に続いていくわけですが、ある意味オーケストラ作曲デビュー作といえます。
当時書かれた譜面がほぼ現存しており、晩年に比べるとはるかに綺麗な記譜によるスコアであることが分かります。服部正は当時やや「フランスかぶれ」していたようで、スコアの楽器名は英語でなくフランス語で書かれていました。
当時の音楽評論家はこの放送を聞いてかなり辛口の批評をされたそうですが、服部正本人は「自分の作品が音になった」事に酔いしれて、そんな批評はどうでも良い、というような気持だったようです。