服部正は1925年に慶應義塾大学法学部政治学科に入学しました。
前回のお話の通りマンドリンに現(うつつ)を抜かしていたため第一志望の経済学部には入れなかったそうです。
そして翌年の12月に慶應義塾マンドリンクラブの演奏会を聞きに行き、入部する事を決断し1927年に正式に「マンドラ」というマンドリンより一回り大きな楽器のパートに配属されました。
その後間もなく当時の指揮者の宮田政夫氏が若くして病気で亡くなり、服部正が現役ながら後任の指揮者として推挙されました。以来60余年に亘る慶應義塾マンドリンクラブの常任指揮者の生涯がスタートしました。
そして独学で見よう見まねで作曲したマンドリンアンサンブル曲「叙情的組曲」が「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」という当時名だたるマンドリン合奏団の主宰者の武井守成男爵が催す「作曲コンクール」で1、2等無しの3等で入賞し、作曲家としての導火線に火が点いてしまいました。
さらにそこで審査員であった菅原明朗先生との運命的な出会いがあり、「音楽」というものが「趣味」を大きく逸脱し「職業」に向かって進行するきっかけとなってしまいました。
この菅原先生は服部正の唯一無二の師であり、作曲、和声法等「音楽」という物を全く専門的に習熟していない服部正を懇切丁寧に指導したと言われています。
こうして服部正もつつがなく大学生活を送っていきますが、いよいよ卒業の段になり一般企業の会社員を目論んでいた父服部正平との対立が表面化して参りました。
このお話は次の回に。