服部正は音楽活動をしている時以外に何をやっているかというと、ただテレビを見ているか散歩しているかという日々を送っていたと思います。
酒もあまり飲まずゴルフもやらず、昔(といっても学生時代)やっていたテニスにしてもラケットすら家に置いていない状況なので、これといったまとまった趣味は無かったようです。
そんな中「野球」については多少なりとも関心は強く、大学時代は早慶戦等はしばしば行っていたという事が古い日記には書いてあり、そこで気持ちが高じて「幻想曲『早慶戦』」なる曲まで作曲してしまいました。(1929年10月慶応義塾マンドリンクラブのために作曲)
私が幼い頃、自宅のそばにある神宮球場に時々プロ野球の試合観戦に連れていってもらいました。
その頃のプロ野球の神宮球場をフランチャイズとしていたのは産経アトムズ(現ヤクルトスワローズ)であり、一時は東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)も神宮を拠点としていました。
もっぱら産経アトムズ戦を見に行っていましたが、大抵行くとアウェーの三塁側内野席に陣取ってました。「なぜ一塁側に行かないのか」との問いかけに、父は「一塁側はうるさいから」というような事を言っていました。確かに地元ファンは応援団も固定的に組織されていましたが、アウェー側は応援団らしきものは当時は無く、いたって静かな客席でした。行った試合は「中日ドラゴンズ」戦と「大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)」戦がほとんどで、巨人戦やタイガース戦は「混むから」と言って避けていたようです。
なのでもっぱら静かに野球を楽しむといった様子だったように覚えています。当然ビールも飲まずに、、、
これは約10年前の神宮球場。当時陣取っていた場所とだいたい同じ位置からの展望。
昔はこんなにきれいに整備されていませんでした。
こんなエピソードも。
依頼されて様々な学校の校歌を作りましたが、今でも甲子園常連の仙台育英高等学校が夏の甲子園で順調に勝ち進み準決勝でも勝利した時に、服部正が初めて応援の電報を打ちに近くの郵便局まで行きました。
ところが翌日の決勝戦で敗れてしまい、母の「余計な事したから負けたんじゃないの?」というぶっきらぼうな一言に父も苦笑いし、フォローもなく次の話題に移っていきました。
大越投手を擁した20年以上前のお話でした。