1975年春先に服部正は慶応マンドリンクラブの選抜メンバーで初めてオーストラリアへ演奏旅行に行きました。シドニーのスキナー氏、メルボルンのエバンス氏というそれぞれ現地のマンドリン合奏団のリーダーと連絡を取り合っての訪問でした。今でこそオーストラリアというと海外旅行の定番ですが、当時はまだ高価であった事とコアラ・カンガルー以外のめぼしい観光資源がそれほど日本で紹介されていなかったこともあり、服部正含めほとんどのメンバーが初めてでした。
シドニーに着陸すると現地のテレビ局がお出迎え、早速インタビューという段取りにびっくり。その後お世話になる家族との対面になりました。オーストラリア側もこちらの定番のホームステイでの受け入れは初めてらしく、双方とも最初は緊張気味でしたがすぐに打ち解け「こんなに楽しいとは想像できなかった」と現地の方々もお喜び頂きました。
そして何と有名なオペラハウスが出来て1年半しかたっていない時に、その大きなコンサートホールで演奏する事が出来たのです!。コンクリートの匂いがまだ残っているほど新しいホールでした。
服部正もこのスキナー氏、エバンス氏とのやりとりをかなり頻繁にやった事で演奏旅行全体がつつがなく終える事ができ、帯同した団員も当時の留守番部隊のメンバーから帰国後羨ましがられる一方でした。
シドニー空港インタビューとオペラハウスでのリハーサル準備の状況
それまで慶応マンドリンクラブの演奏旅行は様々な要因で国内含めある期間行われていませんでしたがこのオーストラリアでの成功をきっかけに国内各地の演奏旅行が復活し、前回ご紹介したアメリカへの複数回の演奏旅行の実現となりました。
その後日本・マレーシア協会の関係で現地訪問の話が持ち上がり、1984年の夏にマレーシア・クアラルンプールへの演奏旅行が実現されました。
ここはさすがにホームステイという段取りは無理だったのでホテルに約1週間近く泊り、演奏会等を開催、当時のマハティール首相も演奏会にご来臨され、かなり国を挙げてのイベントとなりました。
8月の猛暑の時期だったので大変暑かった事と、日本と時差1時間というもののその時差帯の最西端のためいつまでたっても夜が暗くならないのに困惑してしまいましたが、何とか予定のスケジュールを無事終えて帰国できました。服部正は当時76歳という高齢でしたが、この暑さの中でも何食わぬ顔ですべてのイベントをこなしていました。
マハティール首相来臨のクアラルンプール演奏会
オーストラリアもマレーシアも共に元イギリス領だったため、英語でほとんど通じる事と一番ほっとしたのは自動車が日本と同じ左側通行だったことです。ただマレーシアはイスラム教が広く普及しているためビールを飲むのにかなり苦労しました。
服部正もアメリカ以外の国とのこのような演奏旅行はあまりしたことが無かったものの、いつもと同じ雰囲気でステージで振舞い団員をリードしていました。
服部正の海外活動もこれが最後でした。お疲れ様でした。