社歌のご紹介 ② 大手百貨店関係
戦後復興の中で一般消費者にとって一番身近な立役者は、なんといっても「デパート」でしょう。古くは江戸時代からある越後屋から三越に流れていき、その後明治、大正、昭和と大型デパートが大都市に続々と開店していきました。
服部正の手掛けた作品で、このデパート関係の譜面が3社分残っておりました。どれも正式な「社歌」ではありませんが、関係曲としてご紹介します。
まず「マツザカヤ」です。
譜面には「マツザカヤ店歌」と書いてありますが、マツザカヤ内部では「若い力のマツザカヤ」とされているようです。
譜面には作曲年代が書いてありませんが、その筋で調べてみると昭和39年3月との情報を得ました。
実はマツザカヤには全部で3つの歌があるようで「マツザカヤの歌(三木鶏郎作詞作曲)」と「振り向けばマツザカヤ(永六輔作詞、中村八大作曲)」という、どちらもそうそうたる方の作品です。3曲とも昭和30年代の作品で、服部正の曲と中村八大氏の曲は昭和39年のまさに東京オリンピック直前の作品でした。この「若い力のマツザカヤ」の作詞は野々部公子氏という方で、調べても他にこれといった著作が見つからなかったため、マツザカヤの関係者でしょうか。
この曲は今でも時々JASRACの利用報告書にて「録音使用料」の欄に乗っかってくる事があり、いったいどんなイベントで使っているのか非常に気になっています。
実は服部正の自著「広場で楽隊を鳴らそう」に、マツザカヤに関係した記事が載っていました。
時は昭和10年秋、当時の舞踊界の花形「花柳寿美」が踊る「オムニバス舞踊劇『魔笛』」の音楽全般を当時27歳の服部正が担うことになりましたが、その時の伴奏オーケストラが「松坂屋管弦楽団」でした。この楽団は明治末期からある日本最古のオーケストラと言われ、今の「東京フィルハーモニー交響楽団」の前身となります。当時の楽長の早川弥左衛門氏に事前に譜面のチェックをされる等、緊張していた一節が書かれていました。そんな経緯があったのかどうかは分かりませんが、このような作品を受諾したのでしょうか。
ちなみにこの「若い力のマツザカヤ」作曲時点では、松坂屋管弦楽団は既に東京フィルハーモニーとして活躍していました。
他の2つの”百貨店”はどちらも「労働組合の歌」という、会社本体の歌ではない作品でした。
まず一つは「全そごう労働組合の歌」で、印刷譜が残されておりました。
「そごう」は大阪にあった「大和屋」が起源であり、関西地方に多く出店していたようですが、なぜか労働組合の歌を服部正に依頼してきたようです。歌詞の西村スエ子氏はプロの作詞家ではなさそうなので「そごう社」の関係者かと思います。
そしてもう一つは「伊勢丹労働組合の歌」が残されています。
この譜面の表題部は服部正の筆跡ではないので、どなたか(伊勢丹関係者か?)が追記したのではと思います。
特筆すべきは、この曲の作詞はなんと「サトーハチロー先生」であり、デパートによってこういった社歌等の扱いも微妙に変わってくる事も興味深いです。
高度成長期時代は企業がどんどん発展していくとともに、従業員を守る「組合活動」も活性化しており、服部正も労働組合歌をいくつかの業種で作っています。特に当時のデパートは若手の従業員も多かったので、こういった組合歌を作って意気高揚を図った背景もあったのかもしれませんね。