社歌のご紹介 ④ 船舶関係(その2)
前回ご案内した通り、この船舶業界の中でも海運業の離合集散の動きは極めてダイナミックです。服部正は都合3社の海運業の社歌を作ったと思われますが、結局その3社が現存する「商船三井」社1社に統合されてしまっています。
まず「山下亀三郎」氏という実業家が作った会社「山下汽船」社の社歌を作りました。
この「山下汽船」社は1911年に創立、一時は日本郵船、大阪商船に次ぐ大きな存在でした。
山下汽船の社歌は1960年に作られました。作られた経緯は不明ですが、ひょっとすると1954年まで会長だった山下亀三郎氏のご子息の山下太郎氏が慶應出身という事も関係しているかもしれません。
ところが山下汽船はその4年後に「新日本汽船」と合併し、「山下新日本汽船」という会社になりました。この社歌も事実上4年の命だったようです。
しかしながら、この「山下新日本汽船」社の社歌も服部正が新たに作ることとなったようです。
ここの経緯も不明ですが、一般的には合併後の社歌等はお互いの社員の優劣感覚を回避すべく全く違う人脈で作られる事が多く、山下汽船社側からの意向が強かったのではと推測されます。
こちらの譜面には正式な作曲時期が書いてありませんが、合併時期が1964年なのでその時期からそう離れてはいないと思われます。
どちらも「行進曲風」というような書き込みがありますが、やはり全く違う曲です。
さらにここからこの会社はまた合併を繰り返していきます。
1989年に「ジャパンライン」との合併により「ナビックスライン」となり、その10年後の1999年に「大阪商船三井船舶」と合併し、現在の「商船三井」となったようです。
山下新日本汽船社としては1989年までなので、山下汽船時代から数えると約30年間は服部正の社歌が使われていたのでは、と憶測できます。
一方で大阪商船三井船舶社も合併を重ねており、そもそもの大阪商船社は1884年に創業、三井船舶は1942年に三井物産船舶部から独立して会社組織になりました。
そして1964年に「山下新日本汽船」と同じタイミングでこの2社が合併し、そしてナビックスラインと1999年に合併し商船三井社にたどり着く事になります。
ところがここに面白い事があり、服部正の譜面の中から「三井ラインの歌」というものが青焼きコピーの状態で発見されました。
三井船舶の事を当時は「三井ライン」と呼んでいたようであり、歌詞を見ても何となく海運業を彷彿とさせる内容なので、これは三井船舶の歌ではないかと推測されます。歌詞も「藤浦洸」先生が補作されているので、服部正との慶應コンビがここでも登場しており、三井グループともゆかりがあるので可能性は高いと思われます。そしてこれは大阪商船と合併する前の作品と思われ、1964年以前の作曲と考えられます。服部正の筆跡からみても1950年代以降と思われますが、事実上服部正は商船三井社の前身の会社の曲を3曲も作っていた事になり、それぞれ将来合併するとは当然夢にも思わず作曲していたわけです。もちろん委嘱した会社側も当時は全くそんな事は予想していないはずです。
今回この3曲をご紹介するにあたり、商船三井社のホームページの「歴史」欄を拝見させていただきましたが、日本の海運業の整理統廃合の中にこんな社歌の流れがあったとは想定外でした。
でも当時の会社のOBの方々で社歌をご覚えていらっしゃる方もおられるとは思います。是非いつまでも心の中で大事にしまっておいていただけたらと存じます。