服部正は1931年(昭和6年)3月に無事慶応義塾大学法学部政治学科を卒業、一般学生と同じく卒業論文も書いての卒業でした。
服部正の父正平は当然の事ながら息子を普通の社会人にするべく、本人の意向を聞く耳もなく自分の勤めていた銀行の関連会社である生命保険会社にさっさと就職の道を作ってしまいました。
当時はかなり就職難の時代で、さらには大学生でも父親の意向は絶対的な風潮もあり、服部正もこの話に渋々従わざるを得ませんでした。
しかし一旦火のついた音楽家への道をそう簡単に諦められず、昼休みにこっそり会社を抜け出しレコード会社に行って作編曲のアルバイトをちょこちょこやったりしてはいましたが、やはり本業の圧迫でかなり憂鬱な毎日を過ごしていたことも本人の日記にしっかり書き記されていました。
母のヤスも服部正の気持ちを慮り父正平に陰で歎願していたとの事で、あるとき例の菅原明朗先生が服部一家を訪れ音楽家になる事への側面支援をしたりして、とうとう父正平も折れて音楽家になる事を許すことになりました。
この間40日だけその生命保険会社に市電を使って通っていましたが、ここで退職届を出す事になりました。
(2)でご紹介した「普通の保険サラリーマン」と言うお題は、こういった音楽、マンドリン、コンクール、菅原先生等との接点が無ければ、そのまま生保サラリーマンが続いていた、との考察になります。
そして音楽家としての服部正の生涯が改めて始まる訳ですが、これがやはり一筋縄ではいかず、特にこの業界は音楽大学出身者、海外の留学者等がこういった仕事を真っ先に取っていくため、一般大学を出た人間はなかなか音楽家として認められないのが現実でした。菅原先生のご紹介でビクターの専属アレンジャーからスタートしたものの様々な人脈を必死に作って仕事の確保に奔走していたようです。
そしてまた「コンクール」で大きなきっかけが出来ますが、それは次の回に。