もっとお客様が喜ぶ作品を作ろう-そう決めた服部正は、作った曲の紹介、お客様に喜ばれる音楽の演奏を実現するために、どうしても演奏会をやらねばならず、そのために苦労して管弦楽団を調達しなくてはならない事にそうとうストレスを感じていたようです。ならば「オーケストラを作ってしまおう。」という事で、1937年当時の各大学の管弦楽部のOBを中心に声をかけて作った楽団が「コンセール・ポピュレール」というオーケストラであり、服部正もかなり力だけでなく私財を投入したとの記録が残っています。
この楽団は当時としてはそこそこ評判が良く、この写真を見ても結構お客様が日比谷公会堂にたくさん入っているのが分かります。
この楽団はそのまま戦争時代に突入しながらも、戦火の中を細々と演奏会を続け、疲弊した国民を少しでも癒そうという服部正の気概が伝わってきておりました。ただ戦中なので「横文字は良くない」との国からの指導を受け「青年日本交響楽団」と名前を変えさせられたという事だそうです。
しかしながら終戦後の金融政策により法人格を持っていない同楽団ではキャッシュの取引が出来ないという問題で存続が不可能になり、解散に追いやられました。
その後1950年代前半、今度は「広場のコンサート」と銘打って楽団を調達してダークダックス、ペギー葉山、中原美紗緒等の当時売れっ子だった歌手を呼んで演奏会をしばらく続けていきました。
これもそれなりにお客様も集める事が出来ましたが、この頃服部正はNHKの番組音楽作成等でかなり多忙な時期を迎え、さらにはやはり自分が組織した楽団では無かったので扱いも難しく、いつの間にか消滅してしまいました。
そして女性ばかりのオーケストラ「グレースノーツ」が1960年代後半に誕生し、服部正が事実上音楽活動を休止するまでそれなりに続けておりました。
これは音楽大学を卒業した腕の良い女性音楽家の働き場所があまりにも少ない、という声を当時国立音楽大学で教授だった時に聞いたのがきっかけとなっています。
演奏会も結成後十年くらいは演奏会や演奏旅行等行っておりましたが、一番の活動は様々なジャンルの曲のイージーリスニング化したレコードをビクター社からかなり出して頂き、今でもCDとして残っている物があります。
こうして服部正は母校のマンドリンクラブの定期演奏会等と並行してこういった「名曲コンサート」を約50年の間手を変え品を変え楽団を変えながら続けておりました。これが生き甲斐だったと言っても過言ではないでしょう。