今まで敢えて触れておりませんでした服部正の妻(私から言えば「母」)について今回初めてご紹介します。
1954年に服部正は「小西不二子」という女性と結婚した、という事が自著に書かれております。その自著では「2回目の結婚」という事もはっきりと判るような表現をしております。
服部冨士子(不二子から改名したものと思われます。)は1926年(大正15年)京都出身であり、(一説には生まれた場所は中国だったとも伝わっていますが)考えてみると「あずま男に京女」という図式の結婚になったようです。もともとはバレリーナだったらしく、そこでの出会いと思われます。年の差なんと18歳でした。
結婚して間もないと思われる写真が見つかりました。
その後音楽家の妻として様々な所で夫服部正をサポートし、自宅の来客に対しても甲斐甲斐しく接客していました。一時期は楽団「グレースノーツ」の運営でもかなり突っ込んだ立場で対応していました。
その後服部正も第一線での活動がほぼ終わった頃から、2人で近場の観光地を訪れたりして老いても仲良く暮らしていました。その頃の自宅でのショットです。
ある時服部正が自宅のベッドから転落し腰骨を骨折してから歩行が厳しくなり、車椅子での移動、そしてその後寝たきりになってしまいましたが、結局服部正が100歳まで生き永らえたのはこの服部冨士子の献身的な看護、介護によるものが大きいとはっきりと申し上げられます。
実はこの服部冨士子が先日の3月31日、91歳の天寿を全う致しました。今頃やっと最愛の夫服部正のもとに馳せ参じているのではと思います。
(本人が生きている間はこの資料館での「妻」としてのご紹介は控えさせていただきましたが、こういう事情なため今回の運びとなりました。)
医師から死亡通告を受け、病院のベッドで「本当に長い間お疲れ様でした。そして服部正、私の為に一生懸命いろいろと尽して頂きありがとう。早くおじいちゃん(服部正)の所に行ってあげてください。」と声をかけてさしあげました。
素晴らしいお母さまのご冥福を心から祈り申し上げます。
長い人生を全うされて、本当に、本当にお疲れ様でしたと申し上げたいです。
今頃はご主人様と、四方山話でもなされているでしょうか。
どうかごゆっくりおやすみ下さい、とお祈りいたします。
館長様も、本当に、
お気遣い、そして心暖まるお言葉大変ありがたく存じます。
母も父服部正に尽した一生を終え、それなりに充実していたかもしれません。
当日は病院のベッドでそれほど苦しまずに最期を迎えられ、不幸中の幸いだったと思います。
本当にありがとうございました。
館長 服部 賢
先生の奥様とは、先生の訃報をお聞きしてご自宅に伺って以来お目にかかる機会もなく、どうしていらっしゃるかと案じておりました。
KMCを通じたお付き合いの中で、本当によくしていただきましたことを改めて思い出しております。
心から御礼と共に、ご冥福をお祈り申し上げます。
ご丁寧にありがとうございます。
慶応義塾マンドリンクラブの歴代の幹部の皆様は何かと服部正宅に来ていただき、その際に服部正の妻「服部冨士子」ともよく会話させて頂いておりました。
そういった意味ではいつまでも若い人たちとの接点があった事が服部正も服部冨士子も長生き出来た力になったのではと思っております。関係の皆様には心より感謝申し上げます。