本日3月17日は服部正の誕生日です。
1908年生まれなのでちょうど110回目の誕生日を迎えました。
今回誕生日にちなみ、「服部家のルーツ」を探訪してみようと思います。
ちょっと歴史が好きな方にもお楽しみ頂けるようにと思っております。
まず、服部家のルーツを刻んでいる資料が、実は戦中の東京大空襲により焼失してしまった事が判明しており、その消失の経緯も含めた「服部家の祖先」について服部正の父「服部正平」が戦後に書き直した過去帳含め書状が見つかりました。
服部正平の直筆はかなり難読であり、判読不明の部分も多々ありますが、何となく前後関係等でつまびらかになったお話をご覧ください。
服部家のルーツは、そもそも江戸時代に遡ります。
江戸時代初期、現三重県の伊賀地方で「柿原勘太郎」という白米商をしていた一族がおり、当時の有名な大名の「藤堂高虎」が徳川幕府より増封を受けた際に伊賀だけでは間に合わず伊勢の津に進出する事になり、その際に城下町を形成すべく伊賀国より大挙して津に移住した中にこの「勘太郎」も含まれていました。
その子孫に「傳八」という者がおり、それが分家して津の萬町に百姓向けの雑貨商を営む事になりました。当時は百姓向けの茶碗等を売っていたそうで「茶碗屋傳八」と呼ばれていたそうでした。この「傳八」が服部家のルーツにあたるそうです。というのも、この傳八の息子で二代目にあたる「廉平」がなかなかの商売上手で様々な事業を起こし米相場にも手を出し巨万の富を築き上げたそうで、時の11代津藩主藤堂高猷がどうしてもお金が必要になった時に所領内の富豪だけでは間に合わずこの廉平にも声がかかったそうです。そして「金子御用達」という看板、「苗字帯刀」を許され「服部」の名を頂戴したとの事です。
「服部」という名は伊賀上野地区に町名としてだけでなく、町を流れる川の名前も「服部川」として現在も残っており、伊賀地区のシンボル的名前の一つと言われています。
一方で歴代津藩主の系譜を見ると、この11代津藩主高猷の時(1860年前後)に津地方には「凶作」「地震」等の発生により一時期212万両とも言われる借金を藩として抱えていたそうであり、お金が必要になった背景、時期が符合しています。
ここで「服部家」が誕生した事になります。残念ながら当時は「歌舞音曲」の類は殆ど関係していなかったようです。
過去帳によると初代「傳八」の享年は文久3年(1863年)、二代「廉平」の享年は明治12年(1879年)でした。
次回はこの廉平の子孫(三代から五代目にあたる服部正まで)のお話を続けたいと思います。