2年前に当HPとして旧新響(現N響)と服部正の記事を載せました。
そこでも軽く触れましたが、1936年4月に服部正は自作リサイタルをこの旧新響の協力を得て開催致しました。
実はこのリサイタルがその後の服部正の作風を大きく変革させただけでなく、音楽家としての道を大きく変えてしまった事がこの2年間の分析で明確になりました。
まず、この日の演奏曲目をN響のHPから抜き出してきました。
読み取りにくいので再掲します。
1.「迦楼羅面」前奏曲(マンドリン作品よりオーケストラ編曲)
2.「シューベルティアーナ」(倉知緑郎作曲)
3.「微笑」 (ソプラノ:中村淑子)
4.「春と夏」(ソプラノ:中村淑子)
5.「旗に寄する三部作」(西風にひらめく旗、旗の子守歌、祭の旗)
6.「からたち」(テノール:太田黒養二)
7.「甃の上」 (テノール:太田黒養二)
8.「繪本街景色」(マンドリン作品よりオーケストラ編曲)(ソプラノ:中村淑子、ヴォーカル・フォア合唱団)
シューベルティアーナ以外はすべて服部正の自作ですが、この日のためにコンクールで2等を取った「西風にひらめく旗」に2曲を付け加えて三部作にした事、大がかりなマンドリン作品2曲をオーケストラ編曲した等、かなり気合を入れてこのリサイタルに臨んだのが事実です。
ところが服部正著の「広場に楽隊を鳴らそう」で、この演奏会の後にこのように思った事が書かれていました。
『今日のお客は、わたくしの個人的な関係で集まった人たちである。いわば「旦那の義太夫」を無理にきかされて、嫌な顔もできないというお客が、大部分である。もしこれが、まったくの「ふり」の客で、入場料をはらって、こういうものをきかされたら、どんな気持ちがするだろう。勿論、リサイタルというものは、個人芸の展覧会みたいなものであるから、そう面白いわけはない。しかし、それなら、わざわざこんなに大騒ぎをしてやる程の事もないではないか。これだけのことをするなら、もっとお客の喜ぶもの、楽しむものを書くべきである。』
結局この演奏会を最後に服部正は「リサイタル」を一切やる事がなくなり、そしてここに取り上げられた曲目についても服部正は積極的に世に出す事を辞めました。もちろんここに乗せられなかったそれまでの数多くの他の作品も以降の演奏会に取り上げられることが殆ど無くなってしまったのが実態です。コンクールで賞を取ったマンドリンの「叙情的組曲」、オーケストラの「西風にひらめく旗」も2度と耳にする事はなくなりました。
そして服部正の作風は一気に「明るく、分かりやすい楽しい音楽」へと変革していき、後のアンドレ・コステラネッツ氏との接点によりその作風が揺るぎないものになっていきました。
しかしながら、原曲がマンドリンであるためか「繪本街景色」と「迦楼羅面」はマンドリン演奏会で何回か取り上げられています。特に「迦楼羅面」は演奏者からの人気が比較的高く、実は服部正生前も慶應義塾マンドリンクラブの定期演奏会に是非やりたい、と当時現役の学生が提案したことが何回かあったようですが、服部正本人が上記の通り「自己否定をした作品」としての考えか気が進まず、結局本人指揮は2回実現しただけであったようで、あとは否決されました。
この8月に慶應義塾マンドリンクラブが200回定期演奏会をやることになり、OBである三田会マンドリンクラブがこの「迦楼羅面」を演奏する事になりましたが、こういった背景での演奏という事でお聞きになる方、演奏に参加される方もお感じ頂けると幸いです。