シンフォニーと服部正(2)〔第九〕【クラプロ】

服部正は以前新交響楽団(現NHK交響楽団)の指揮も時々任されていました。その頃も含めベートーヴェンのシンフォニーは「第九」を除き全曲の指揮をやった経験がある、と著書で書いておりました。「第九」も最後の4楽章の合唱部分は何回か振った事があるらしいです。ただ、昔から「第九」については「合唱に辿り着くまでが長すぎる」と言っており、当然自分の企画演奏会では「第九」の全曲をやる気はさらさらなかったようです。どうも「合唱の部分までたどり着く前にみんな寝ちゃうか帰っちゃう。」とも話しており、この「第九」全曲演奏についてクラシック初心者向けの選曲としては懐疑的でした。

年末に必ず日本ではどの楽団でも「第九」をやる事についても「楽団員の正月の餅代稼ぎのため」といち早く教えてくれたのも父でしたが、生活水準が当時に比べて良くなってもその風習が変わらない事を見て「日本人は律儀でまじめすぎるね」とボソッと言っていました。
服部正は「シンフォニー」でも「コンチェルト」でも全曲をやる事へのこだわりは無く、気に入った楽章だけを演奏したり、それも多少カットしたりして「聴きやすく」することに余念がなかったようです。前にも書いた通りシンフォニーのある楽章のメロディに歌詞をつけて歌ってもらう等、そのシンフォニーが持っている美しいメロディだけを皆さんに聴いてもらおうとおもっていたようです。

そのベートーヴェンの「第九」の4楽章をさらにカットし、聴き映えする部分だけのいいとこどりをしたマンドリンオーケストラ向けアレンジのスコアが残っておりました。

これは慶應義塾マンドリンクラブ第74回定期演奏会(昭和30年〔1955年〕6月)に「名曲アルバム」と題した第4部の最後を飾る曲として取り上げられました。
「広場のコンサート」は1956年にスタートしたので、このアプローチはまさに「広場」の予告編のような形でした。
単なる合唱部分の名旋律だけかと思いきや、まさに第4楽章の始まるフォルテシモ部分をマンドリン合奏で再現、有名な合唱部分とテノールのソロのマーチ的な部分、そしてエンディングと、本当にいいとこどりのアレンジとなっています。

前述の通り服部正は以前「普段クラシックを聴かない人間が年末に第九だけ聴きに行く、という姿は本人も期待外れでクラシック界においてもマイナス。それではクラシックファンを広げられない。」と漏らしてました。
一番の聞かせどころに到達するまで約45分は待たされ、有名な合唱部分はそれなりに聴いて帰りますが、次に違うクラシックコンサートに誘われても恐らく気が進まず断るのではと思います。
今は年末も過ぎ次の第九の季節は11カ月後になりますが、皆さんの周囲で上記のような方がいらっしゃったら、それなりにアドバイスしてあげた方が良いかもしれませんね。「最初40分は寝てもいいよ。ただしいびきはかかないように!」とか?。

シンフォニーと服部正(1)【クラプロ】

コンセール・ポピュレール発足当時はまだテレビは無くラジオも音質が悪く、クラシック音楽の番組をあまり放送していませんでした。
レコードはSP時代で高価なうえ1枚当たりの収録時間が数分という状況なので、長いクラシック曲を「聴く」ためには何枚も付け替えるという時代でした。
従って30分を越えるようなシンフォニーを耳にする機会はそれほど多くなく、聴衆もこのジャンルについては疎かったと思われます。
そんな中で、生演奏を気軽に聴けるような演奏会を目指し、その中でもシンフォニーを身近に感じるように服部正は考えました。

第1回のコンサートではベートーヴェンの「田園」を選びました。
この曲は全体で40分程度かかる曲ですが、極めてほのぼのとしたムードで始まり、小川のせせらぎ、村人の祭、雷とその後の爽やかな牧歌、という一連の平和的流れが服部正も気に入っていたようです。
当時は徐々に太平洋戦争に向けた社会情勢の変化が少しずつ見え始め、演奏会でも同盟国である「ドイツ」「イタリア」の音楽は歓迎されても、それ以外の国の音楽は「非国民」的扱いをされていたようです。従ってベートーヴェン、ブラームスやヴェルディといったドイツ・イタリア作曲家は優遇され、特にこの「田園」の「癒し」的アプローチは殺伐としてきた時代に万人に受けたようです。

服部正が好んで取り上げたシンフォニーは、他にシューベルトの「未完成」がありました。コンセール・ポピュレールの無二の友人が病気で亡くなった時に告別演奏会に取り上げたり、ポップス編成の「グレースノーツ」でも演奏可能なように編曲したり、マンドリン合奏でも唯一シンフォニー全曲の編曲をしたほどです。

 マンドリン版シューベルト「未完成」編曲譜(1984年)

「広場のコンサート」で服部正は面白いアプローチをしていました。
シンフォニーのある部分を取り出して「歌詞」をつけて歌手に歌わせたのです。
ベートーヴェンの交響曲でも第2番の第2楽章、第7番の第2楽章をダークダックスに歌って頂いた記録が残っており、服部正著の「広場で楽隊を鳴らそう」では何と越路吹雪にチャイコフスキーの交響曲第5番の第2楽章を歌って頂いたとの事が書かれていました。
やはり「第2楽章」というのは一般的に叙情的なメロディが多いので歌にしやすかったのでしょう。
 広場のコンサート第8回(1958年)プログラムより

実は服部正は意外と「モーツァルト」に対してはそれほど積極的に選曲していないという事が様々な事から分かってきました。
「広場」でも「グレースノーツ」でもモーツァルトの作品で取り上げられたのは有名な「アイネクライネナハトムジーク」程度であり、シンフォニーやその他のセレナードはあまり選曲されていません。逆にハイドンの方がお気に召していたようで、国立音楽大学で教鞭をとっていた時もハイドンにかなり力を入れていたようです。

*これから「クラシック・プロデュース」カテゴリの記事には、題名に【クラプロ】と付記します。

服部正が目指した「クラシック普及」

2018年は服部正没後10年であり、生誕110周年でもあります。
服部正が生涯一途に進めてきたことが「良いクラシック音楽を皆さんに提供」という活動であり、それが「コンセール・ポピュレール(後の青年日本交響楽団)」「広場のコンサート」「グレースノーツ」という楽団運営や演奏会企画により実現されました。そのかたわら、長年指揮をしていた慶應義塾マンドリンクラブのプログラムもその方針に則った選曲で続けていました。
今年はそういった意味で「クラシックの普及」に焦点を当てて、当資料館の投稿を続けていきたいと思います。新たに当ページのカテゴリーとして「服部正のクラシックプロデュース」と題したものを作りました。
今回はそのイントロダクションとして、経過をご紹介したいと思います。

*青響期(1937年~1946年)
言うまでもなく「コンセール・ポピュレール(青年日本交響楽団)」として活動してきた時代であり、東京の大空襲の中でも地道に演奏会を開いていた頃です。
*広場期(1956年~1959年)
服部正が最も活躍していた時期での一連のコンサートプロジェクトです。ダークダックス、中原美紗緒等との関係が確立された時期です。
*晩年期(1970年頃~1993年頃)
グレースノーツやKMCの活動を中心に様々なジャンルの音楽も取り込みながら積極的に演奏会、録音、演奏旅行を繰り返して活動していた時期です。

 1958年頃の広場のコンサート

服部正の17歳の頃の日記が残っていますが、この頃からクラシック音楽に傾倒してきました。それがこのページでわかります。

 1925年当時16歳の頃の1月の日記から

「買ひ(い)たいレコード」と書いてありますが、当時のレコードはかなり高価なものだったので未成年がそんなに簡単に入手できるものでは無く、しかも超有名な曲ではない物も結構入っており、当時からすればかなり「ませた」音楽少年だったと思われます。例えば「死と浄化」と書かれているのはリヒャルト・シュトラウスの「死と変容」という交響詩のことであり、少なくとも今でも16歳の青年(少年?)が買いたくなるような曲とは思えず相当「オタク」的選曲です。

こういったバックボーンで育った服部正として、青響期に始まる演奏会の選曲についても既にかなりの知識が入っていたものと想像できます。

このコーナーでは分かっている限りの過去のコンサートの選曲から皆様にも「クラシック入門へのヒント」になれるようなガイドにしていき、服部正が目指していた物にも近づけていけたらと思っております。

是非お付き合いください。

「広場に楽隊を鳴らそう」(復刻版)のご案内

皆様、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

以前ご案内しておりました「広場に楽隊を鳴らそう」(復刻版)の電子書籍版をこのほどアップ致しましたのでご紹介いたします。
「パブー」という電子出版サービスにてアップ致しました。
気持ちとしてはお金を頂くべきものなのかどうか非常に悩みましたが、平凡社にて出版された当時「220円」という定価で販売されており、熟慮の末心苦しいですが「300円」にてご提供させて頂くことに致しました。
出版された当時で考えると、例えば服部正が住んでいた「原宿」から「新宿」までの大人電車賃が20円であり、現在だと6~7倍の価値観になってきます。
なので「220円」はだいたい今の1500円近くとなり、初版本では掲載されなかった「写真」や「譜面の一部」も掲載、出版された昭和33年以降の半生の(僭越ながら)小生の追記分もございますので「300円」というものが決して高いものでは無いと勝手に解釈しております(!?)。

もし宜しければ是非このページをご覧になっていただければ幸いです。

尚、この電子書籍は「横書き」となっており、ダウンロードできるPDFも横書きなので、初版本にて採用されていた「縦書き」や、読みやすい文字(楷書体)にこだわった紙ベース対応可能な方法も模索中であり近々ご紹介する所存でございます。

よろしくお願いいたします。

パブー トップHP

パブー 「広場で楽隊を鳴らそう」復刻版ページ

服部正と無縁でなかった!スマートスピーカー!!

昨今グーグルやアマゾンで有名になったスマートスピーカーが我が家にもやってきました。息子が家内の誕生日プレゼントで贈ってくれたもので、主に家庭内BGMマシンとして重宝しています。

このような音楽配信サービスは服部正とは無縁であると思っておりました。
ところが今月届いたJASRAC利用明細のインタラクティブ欄を見ると、利用者一覧の中に「アマゾン」「アイチューンズ」「スポティファイ」といった音楽配信サービス会社や大手携帯電話会社等がずらっと並んでいるのです。曲目は「ペールギュント組曲」や「アルルの女~ファランドール」等ライト・クラシック系の作品が多く、服部正が最も得意としていたジャンルなので間違いはなさそうですが、これだけの錚々たる先端企業のサービスに関連しているというのは驚きです。
早速マシンに「OKグーグル」と声をかけ、その対象曲の名前を言って「演奏して!」と持ちかけると、「個別の曲のサービスは有料契約になります。」という素っ気ない返事、、、。(笑)
でも、実態として皆様に配信やダウンロード等で何らかのお役に立っていると思うとちょっと嬉しくなると同時に、昨今の音楽提供媒体の多用化とその進展に驚きを隠せないのが正直な所です。もうCDの時代では無くなってきているのですね。(もうすぐ平成も終わってしまうので致し方無いのかもしれませんが、、、)
ちなみに気になる著作権料金ですが、演奏時間との兼ね合いもあり一概には言えないですが「リクエスト回数」が1,000回近くでも数十円でした、、、。

今年も間もなく終わり新たな年を迎えます。
一年間様々な事がありましたが、ご覧いただいている皆様のおかげで何とか継続して運営させて頂いております。ありがとうございました。
来年は服部正没後10年で生誕110周年となります。
また来年も引き続きよろしくお願いいたします。

皆様良いお年をお迎えください。


館長 服部 賢

服部正の自著「復刻版」近々リリース予定!

ここのところ連続してお伝えしている「レク&コン」のレクチャー部分のベースになっている服部正が唯一自伝的著書として書いた「広場で楽隊を鳴らそう」について、一部の方々(慶應義塾マンドリンクラブのOBの方等)から再版の期待をされておりました。
私も以前からこの本の再版について様子を窺っていたのは事実で、先般初版出版の平凡社殿にも確認の連絡を入れさせて頂き、再版の予定は無く出版から50年以上経っているので親権者の意向で新たに出版されるのも構わないとの事でした。
実はそれに備え、本書をかなり前から少しずつデータ化し始め数年前にほぼ完了しておりました。従って今般電子出版で提供する事が比較的容易に対応可能であることが分かり、現在その方向で推進中です。メジャーな電子出版社で発行するとご提供にコストが余計にかかってしまいそうなので、なるべく安価でご提供できるようなルートで進めております。

原著の内容はほぼ修正せず(明らかに直した方が良い表記や誤字のみ修正)、記事に相応しい画像(写真、楽譜等)も追加しました。
また、この著書は服部正50歳の時の出版であり、生涯100歳として残りの半生について何も書かないのも不自然なため、私が僭越ながら若干追記させて頂いております。
とりあえず当面は電子出版での対応で進める所存ですが、書面でも提供可能な形も並行して検討しております。

リリースのあかつきには是非ご購読いただければと存じます。
本HPでまたご案内申し上げます。

(実は、このための各種整理、作業をしていたため、本HPの新規記事アップが滞ってしまいました。申し訳ございません!!)

レク&コン抜粋(6)演奏会の企画と楽団作り

もっとお客様が喜ぶ作品を作ろう-そう決めた服部正は、作った曲の紹介、お客様に喜ばれる音楽の演奏を実現するために、どうしても演奏会をやらねばならず、そのために苦労して管弦楽団を調達しなくてはならない事にそうとうストレスを感じていたようです。ならば「オーケストラを作ってしまおう。」という事で、1937年当時の各大学の管弦楽部のOBを中心に声をかけて作った楽団が「コンセール・ポピュレール」というオーケストラであり、服部正もかなり力だけでなく私財を投入したとの記録が残っています。
この楽団は当時としてはそこそこ評判が良く、この写真を見ても結構お客様が日比谷公会堂にたくさん入っているのが分かります。

この楽団はそのまま戦争時代に突入しながらも、戦火の中を細々と演奏会を続け、疲弊した国民を少しでも癒そうという服部正の気概が伝わってきておりました。ただ戦中なので「横文字は良くない」との国からの指導を受け「青年日本交響楽団」と名前を変えさせられたという事だそうです。
しかしながら終戦後の金融政策により法人格を持っていない同楽団ではキャッシュの取引が出来ないという問題で存続が不可能になり、解散に追いやられました。
その後1950年代前半、今度は「広場のコンサート」と銘打って楽団を調達してダークダックス、ペギー葉山、中原美紗緒等の当時売れっ子だった歌手を呼んで演奏会をしばらく続けていきました。

これもそれなりにお客様も集める事が出来ましたが、この頃服部正はNHKの番組音楽作成等でかなり多忙な時期を迎え、さらにはやはり自分が組織した楽団では無かったので扱いも難しく、いつの間にか消滅してしまいました。
そして女性ばかりのオーケストラ「グレースノーツ」が1960年代後半に誕生し、服部正が事実上音楽活動を休止するまでそれなりに続けておりました。
これは音楽大学を卒業した腕の良い女性音楽家の働き場所があまりにも少ない、という声を当時国立音楽大学で教授だった時に聞いたのがきっかけとなっています。

演奏会も結成後十年くらいは演奏会や演奏旅行等行っておりましたが、一番の活動は様々なジャンルの曲のイージーリスニング化したレコードをビクター社からかなり出して頂き、今でもCDとして残っている物があります。

こうして服部正は母校のマンドリンクラブの定期演奏会等と並行してこういった「名曲コンサート」を約50年の間手を変え品を変え楽団を変えながら続けておりました。これが生き甲斐だったと言っても過言ではないでしょう。

レク&コン抜粋(5)最初で最後の「作曲リサイタル」

服部正が音楽家になる大きな存在が「菅原明朗」先生である事は以前も記載しました。この菅原門下の一人の作曲家として「深井史郎」という人間がおり、服部正もこの深井氏とは菅原先生のもとでよく付き合っていたとの記録が残っております。
深井氏は比較的人脈も広く当時のNHK関係者と様々なコネクションがあり、服部正もこの深井史郎氏の人脈を辿ってNHKの音楽部長との接点が出来ました。そこで現NHK交響楽団の前身である「新交響楽団」とのお付き合いも始められることが出来たようです。そこでの様々な経験等で作曲活動にも磨きがかかり、当時の時事新報社の音楽コンクール(現在は毎日音楽コンクールに継承されているとの事です。)に自身の作曲した「西風にひらめく旗」を応募作品として提出しました。時は1935年、会社を辞めてから4年後になりますが、今回は2等賞を得る事が出来ました。

当時からすれば、こういったコンクールの入賞者は音楽大学卒業生や欧米での留学経験者が常に席を占めていましたが、一般大学卒業者が受賞する事は極めて稀な事でした。
おりしも服部正はこの頃最初の結婚をし、生活を安定させる為にもさらに仕事を増やすために様々な活動をし始めましたが、その一つとしてこのコンクールでの成果を引っ提げて自分の様々な作品を世に問うべく「作曲家としてのリサイタル」を自ら企画立案推進をすることにしました。
何と前述の「新交響楽団」も担ぎ出し、今まで協演していただいた歌手や作曲家の友人の支援も受けながら、1936年4月15日日比谷公会堂で自ら指揮を振りながらこの演奏会は行われました。コンクールで入賞した「西風・・・」に新たに2曲を付けて「旗三部作」として発表、迦楼羅面、絵本街景色というマンドリン合奏のために作った曲のオーケストラ編曲等かなり本人も力を入れて作編曲をして臨んだところ、予想以上の入場者が得られ演奏会自体の採算も赤字でなく好評裡で終わったとの事でした。
しかしながら終演後の来場者の「お褒めの言葉」を聞きながら、どうも服部正は空虚な気分になったようで、自著にも下記のような言葉が記されています。

今日のお客はわたくしの個人的な関係で集まった人たちである。
もしこれがまったくの「ふり」の客で、入場料を払ってこういうものを聞かされたらどんな気持ちがするだろう。
これだけのことをするならばもっとお客の喜ぶもの、楽しむものを書くべきである。

そして最後にこう締めています。

もっと客観的な態度で聴衆の心の中にあるものを掴みだせるようになる事だ。そういう作者になろう。

そしてこれを最後に2度とリサイタルなるべきものをすることはありませんでした。

服部正はこれ以降の作風が「明るく、楽しく、親しみやすい曲」に大きくシフトチェンジすることになりました。
事実、服部正は管弦楽を中心に自らの意思で作曲をする事が殆ど無くなり、委嘱作品、様々な依頼に応える作曲家としての活動が本筋となっていきました。
演奏の面でも、それ以前(1936年4月以前)に作曲した作品を自ら取り上げる事はほとんどしませんでした。
例外として「迦楼羅面」は今に至っても卒業生だけでなく慶應の現役学生の評判が良かったこと、「絵本街景色」は慶應義塾マンドリンクラブ第100回記念演奏会に大幅に手を加えた事、「蝶々の主題による変奏曲」は作曲された当時「野心的作品」と言うよりも親しみやすい雰囲気の作品だった事が理由で再演が実現されています。

次回は、この「明るく親しみやすい音楽」の普及活動について触れたいと思います。

レク&コン抜粋(4)40日で終わった保険サラリーマン

服部正は1931年(昭和6年)3月に無事慶応義塾大学法学部政治学科を卒業、一般学生と同じく卒業論文も書いての卒業でした。

マークがついているのが服部正。左の文字は自筆。

服部正の父正平は当然の事ながら息子を普通の社会人にするべく、本人の意向を聞く耳もなく自分の勤めていた銀行の関連会社である生命保険会社にさっさと就職の道を作ってしまいました。
当時はかなり就職難の時代で、さらには大学生でも父親の意向は絶対的な風潮もあり、服部正もこの話に渋々従わざるを得ませんでした。
しかし一旦火のついた音楽家への道をそう簡単に諦められず、昼休みにこっそり会社を抜け出しレコード会社に行って作編曲のアルバイトをちょこちょこやったりしてはいましたが、やはり本業の圧迫でかなり憂鬱な毎日を過ごしていたことも本人の日記にしっかり書き記されていました。
母のヤスも服部正の気持ちを慮り父正平に陰で歎願していたとの事で、あるとき例の菅原明朗先生が服部一家を訪れ音楽家になる事への側面支援をしたりして、とうとう父正平も折れて音楽家になる事を許すことになりました。
この間40日だけその生命保険会社に市電を使って通っていましたが、ここで退職届を出す事になりました。
(2)でご紹介した「普通の保険サラリーマン」と言うお題は、こういった音楽、マンドリン、コンクール、菅原先生等との接点が無ければ、そのまま生保サラリーマンが続いていた、との考察になります。

そして音楽家としての服部正の生涯が改めて始まる訳ですが、これがやはり一筋縄ではいかず、特にこの業界は音楽大学出身者、海外の留学者等がこういった仕事を真っ先に取っていくため、一般大学を出た人間はなかなか音楽家として認められないのが現実でした。菅原先生のご紹介でビクターの専属アレンジャーからスタートしたものの様々な人脈を必死に作って仕事の確保に奔走していたようです。
そしてまた「コンクール」で大きなきっかけが出来ますが、それは次の回に。

レク&コン抜粋(3)-プロへの導火線となった作曲コンクール入賞

服部正は1925年に慶應義塾大学法学部政治学科に入学しました。
前回のお話の通りマンドリンに現(うつつ)を抜かしていたため第一志望の経済学部には入れなかったそうです。
そして翌年の12月に慶應義塾マンドリンクラブの演奏会を聞きに行き、入部する事を決断し1927年に正式に「マンドラ」というマンドリンより一回り大きな楽器のパートに配属されました。
その後間もなく当時の指揮者の宮田政夫氏が若くして病気で亡くなり、服部正が現役ながら後任の指揮者として推挙されました。以来60余年に亘る慶應義塾マンドリンクラブの常任指揮者の生涯がスタートしました。

そして独学で見よう見まねで作曲したマンドリンアンサンブル曲「叙情的組曲」が「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」という当時名だたるマンドリン合奏団の主宰者の武井守成男爵が催す「作曲コンクール」で1、2等無しの3等で入賞し、作曲家としての導火線に火が点いてしまいました。
さらにそこで審査員であった菅原明朗先生との運命的な出会いがあり、「音楽」というものが「趣味」を大きく逸脱し「職業」に向かって進行するきっかけとなってしまいました。
この菅原先生は服部正の唯一無二の師であり、作曲、和声法等「音楽」という物を全く専門的に習熟していない服部正を懇切丁寧に指導したと言われています。
こうして服部正もつつがなく大学生活を送っていきますが、いよいよ卒業の段になり一般企業の会社員を目論んでいた父服部正平との対立が表面化して参りました。
このお話は次の回に。