服部正とアメリカ音楽

服部正は戦後から「アメリカの音楽」にかなり傾倒してきたように思われます。
一つは戦後GHQがNHKに対し放送内容をかなり厳しくチェックした事もあり、当時NHKの音楽番組でかなりの仕事をさせて頂いた関係でこのGHQとの接点が影響していたと思われます。
また、当時アメリカのムード音楽(現在ではイージーリスニングと呼んでいるジャンル)のプレーヤーとして有名な「アンドレ・コステラネッツ」が1955年に初来日しN響を振った時に、演奏会前後に日本の音楽家との接点としてインタビューに応じて頂いた時に服部正が同席する事が出来ました。この時の話が服部正の音楽観を大きく転換させたようです。コステラネッツ氏は「民衆の好む歌やメロディを新しいスタイルで編曲し、それを紹介しながらヨーロッパのクラシック音楽と融合させたコンサートを企画推進し大衆の音楽観の啓蒙をした。」という事を話されました。
それが服部正の企画した「広場のコンサート」に繋がっていき、さらにはKMC、そしてグレースノーツに発展しました。

ビギンザビギン自筆スコア

コステラネッツ氏の不朽の名作と言われたのが今回演奏するポーター作曲の「ビギン・ザ・ビギン」で、服部正も1963年にKMC向けに編曲、以来国内演奏旅行の定番プログラムとして扱われました。さらにはリチャード・ロジャースのミュージカルやフォスターの名曲等を次から次へと編曲し、KMC、広場のコンサートで披露してきました。

ラプソディインブルー自筆スコア

そして1978年のアメリカ演奏旅行時に向け新たにガーシュウィンの「ラプソディインブルー」をマンドリンでやる、という思い切った事をトライする事になったのです。
当然ピアノは無く短縮版として編曲、初演時はマンドリンオーケストラにトランペットを追加し、かなり大掛かりな演奏になりました。
その時のステージで演奏前にこの曲に対する熱意を語っていました。

1977年KMC119回定演ラプソディインブルー初演時の服部正MC
服部正所蔵ラプソディインブルースコア


服部正の蔵書にもこのラプソディインブルーのスコアがあり、表紙に自筆サインをしております。スコアの保存状態を見ると恐らく1950年代前後と思われ、ガーシュウィンが作曲しグローフェがオーケストラ版に編曲した版が世間に出てきた直後に入手したものと思われます。

コステラネッツのコメントで火がついた服部正のアメリカ音楽、これも是非ご堪能頂きたいと思います。

KMC三田会演奏会案内とホリデー・イン・ジャパン

KMC三田会の第9回定期演奏会が実施される方向で練習活動を開始しました。

KMC三田会第9回定期演奏会チラシ

8/8(開演14:00)に例年の「東京オペラシティ タケミツメモリアル」にて行われる予定になっております。
(なんと、オリンピック閉会式の日!!)

曲目は第1部が「三田会の浪漫」と題し、ドイツの作曲家ヴェルキの「ロマン的協奏曲」そして前回ご紹介したのシューベルト交響曲第7番「未完成」、第2部は「三田会の休日」と題し、ポーターの「ビギン・ザ・ビギン」、服部正構成・作曲の「ホリデー・イン・ジャパン」、そしてガーシュウィンの「ラプソディインブルー」というかなり幅広いジャンルの作品をお届けします。


今回は入場者数の制限もあるため全席指定で蜜を避ける対応とするため、チケット販売がかなり限られているようです。
当館でもとりあえず対応を検討しますが、出演者配布枚数でかなりの物量となるため、入手についてはあまりご希望に沿えない可能性もございますので、予めご承知おき下さい。(出演者にコネクションを持たれている方は早めに打診されるのもよろしいかと存じます。)

今回はそこで演奏される数々の「日本の歌」を紹介する服部正構成、編曲・作曲の「ホリデー・イン・ジャパン」を取り上げました。
この曲はまさに日本の有名な歌をメドレーにした作品で、特に慶応義塾マンドリンクラブの海外演奏旅行でこの曲は定番物として演奏していました。

昭和30年代、まだ海外旅行というものが全く一般化されていなかった時代に行われた全マン(全国大学マンドリン連盟)やKMCでのアメリカ演奏旅行がきっかけでこの作品が生まれたと言われています。「さくらさくら」に始まり「越後獅子」「金毘羅舩」「証城寺の狸林」「赤とんぼ」など日本人が改めて聞いても心地よい曲が並びます。当然海外では当時日本の事を知らない方も多く、そこで演奏される音楽も日本通の人を除けば皆さん初めて聞く曲ばかりではないでしょうか。
服部正はこういった日本の音楽を紹介するとともに、訪問した国の名曲を積極的に編曲、演奏して来場客が喜んでいただける演出も一生懸命考えておりました。

東京少年合唱隊の和服イメージレコードジャケット

この頃の日本は戦後復興期で経済・工業的にかなり落ち着いてきた段階で、ようやく文化の海外進出も徐々に光が当たってきた時の作品と言えます。
服部正はこの「ホリデーインジャパン」をマンドリンオーケストラの為に作りましたが、実はほぼ同時期に「東京少年少女合唱隊」のために日本民謡メドレーを作っていました。これも「さくらさくら」で始まり「さくらさくら」で終わる間にほぼ似たような配列で様々な童謡、民謡が並べられていました。合唱隊の方はこのレコードジャケットのように和服に着替えて歌いながらちょっとした振り付けも付けて披露していました。当時服部正はこの合唱隊の会長職も一時的にやらせて頂いたと記憶しております。どっちが先に作られたかは現状不明ですが少なくとも1960年前後であることは間違いなさそうです。


どちらの団体も1960年代に相次いでアメリカ等に海外演奏旅行に行き、当時はアメリカでも日本の学生や子供の団体が来ることが極めて珍しく、話題を呼んだようです。
その時の帯同頂いたゲストによっては中の曲が変わったりしており、ある時は「荒城の月幻想曲」をこの中に放り込んで演奏していました。

箏が入ったホリデーインジャパン(1975年114回KMC定期公演)

KMCの海外旅行の中でもオーストラリア等では「箏」を入れた演奏にもなりましたが、意外と箏の音がしっかり浮き上がりマンドリンアンサンブルと波長が合っていたようです。日本の歌曲等は撥弦楽器としてのマンドリンと合っており、現地の方も興味津々でお聴き頂いておりました。この時は「さくら」と宮城道夫の「春の海」抜粋を箏とのコラボレーション曲として紹介しておりました。
ただ、現地で一番苦労したのが「箏」の運搬で、炎天下での野外コンサートでの対応や、空港での出入国時は現在とは違った苦労があったようです。
たまたま帯同頂いたお箏の先生がとてもフランクな方だったので来場客だけでなく出演者からもとても人気を博しておりました。
そのうち海外演奏旅行も効率化を考え、その後の演奏旅行では箏を無くし、ウッドベースはエレキベースに置き換わったりしてこの曲の演奏機会はかなり減ってしまったのは明らかです。

そういえば、服部正は会社を辞め音楽家として独立した時の最初の仕事はビクターでの小学校唱歌等、子供向けの音楽の編曲等をやらせて頂いた事でした。2~30年前に培った努力とテクニックがここに再現されているとも言えそうです。
皆さんも、もしお聴きになる機会がありましたらどれだけご存知の曲が出てくるか楽しみにされたらよろしいかと思います。

服部正とシューベルト「未完成」

実は今年の夏に予定されている慶応義塾マンドリンクラブ三田会定期演奏会について、なかなかきちんとしたご提示がコロナ等の問題で出来ていない状況でした。
オリンピックも開催の方向で動き始め、さすがにそろそろ発信したほうが良いとも思い、投稿に至りました。

今回の定期演奏会は、昨年予定されていた演奏会が中止となり今年に延期されましたが、選曲も一部変更になりました。その結果「服部正の作編曲」がオンパレードする形となりました。

具体的に申し上げると以下の通りです。

第1部 「三田会の浪漫」
ヴェルキ ロマン的協奏曲
シューベルト 交響曲第7番「未完成」(服部正編曲)

第2部 「三田会の休日」
ポーター ビギン ザ ビギン(服部正編曲)
服部正 ホリデー・イン・ジャパン
ガーシュウィン ラプソディ・イン・ブルー(服部正編曲)

要するにヴェルキ以外、服部正の息がかかった作品となります。

これを機に演奏される曲について服部正の観点でご紹介をしていこうと思っております。

今回はシューベルトの「未完成」です。

服部正は1936年の自分の作曲家リサイタルを機に「本格的クラシック音楽作曲」から「クラシック音楽の普及活動」に舵を切り替えました。自身でオーケストラを作り、ポピュラーなクラシック音楽を一般聴衆にお届けする事が一番のミッションであり生き甲斐になったと思われます。

当然堅苦しい交響曲や現代曲は選曲から外れ、どこからともなく聞こえるようなクラシックの小品を集めて演奏会に登場させました。

そんな中で「交響曲」の分野で服部正が積極的に取り上げたのが、ベートーヴェンの「田園」とこのシューベルトの「未完成」です。特に「未完成」はコンセールポピュレールの第1回ポピュラーコンサートでも取り上げられ、そのオーケストラでの有能な参謀であった山口氏が昭和15年若くして逝去した時に追悼演奏会でこれを取り上げたり、晩年のグレースノーツの定期演奏会でもプログラムに乗せたりしており、服部正にとっては「特別な交響曲」としての存在でした。

コンセールポピュレール 1940年山口雅章氏追悼演奏会のご案内

中でも昭和59年に慶応義塾マンドリンクラブのためにこの交響曲の完全マンドリン版を作ったのには正直OB含め驚きを持って迎えられました。
そもそも服部正はマンドリンで本格的クラシックの作品をゴリゴリ演奏する事は昔から反対しており、当時の学生部員から提案しても一蹴されてばかりだったと聞いています。
それが服部正76歳になった年に、自らペンを取って一気に書き上げたのです。
さすがに通常のマンドリンオーケストラでは限界があると見え、ホルン2本を特別に加えております。

シューベルト交響曲ロ短調「未完成」マンドリン譜

後にも先にも服部正の交響曲全曲のマンドリン編曲版はこの1曲しかないと思われます。

今でこそいろいろな交響曲を各地のマンドリンオーケストラがアレンジして演奏会に出していますが、当時としては非常に珍しい事であり、しかもマンドリンでのシンフォニー否定派の服部正がKMCで登場させたのはどう考えても「驚き」としか言えません。

今回この曲の実音を聞いてからこのコメントを書こうと思っておりましたが、残念ながら「緊急事態宣言」もあったので練習開始が大幅に遅れており、投稿時ではまだ音出しに至っておりません。

この三田会の演奏会は8月8日(日)に行われる予定ですが、まだ五輪の動きやコロナの動向が不安定な状況なので、果たして演奏会が出来るかどうかも実は内心不安な所もありますが、もし実現出来る事になれば是非皆様にもお聴き頂ければと思います。

追悼 小林亜星先生

本日ニュースで小林亜星先生がお亡くなりになった事を知りました。
まず心より哀悼の意を表し、ご家族、御親族様へのお悔やみのお言葉を申し上げたいと存じます。

服部正が亡くなった2008年、9月に「お別れの会」の際にご来臨頂き、お言葉を頂戴致しました。そして、その後も数多くのテレビでのインタビューの時に「自分が作曲家になってここまで来たのも服部正先生のおかげ」といつも仰っていただいた事がとても有難く、心より謝意を表しておりました。
特に2016年にBS朝日放送での「黒柳徹子のコドモノクニ」では服部正の案内役として登場頂き、過分なお言葉を番組内で頂戴致しました。
一度お手紙で「一回食事でもしましょうか?」とのお誘いを頂いた時に、たまたま母(服部正の妻)がかなり危篤状態だったので、ご丁重にお断りさせて頂いたのですが、今から思うとせっかくの機会に大変失礼な事をしてしまったと後悔しております。

服部正と弟子の先生方。左端が小林先生

服部正はそもそも「弟子」という者を育てるという意識があまり無く、ただひたすら作曲、編曲、指揮にいそしんでおりましたが、ここにいる皆様(小林先生、若松先生、江口先生他)だけには一緒に仕事をしながらちょっとしたコツやテクニックを伝授していたようです。
小林先生は時々あの大きな体をゆすって当家を訪ねて頂き、応接間兼仕事場が2階にあったので、母が「大丈夫かね?階段が抜けて怪我させちゃ申し訳ないけど、、、」と不安がっていた事も思い出として残っています。

自宅の応接間兼仕事場で小林先生と

ある意味服部正以上に一般聴衆への音楽普及度に大きく貢献された小林先生ですが、いつも服部正の事を慕っていただいた事に改めて御礼を申し上げ、安らかにお眠り頂いて天国でまた服部正と再会して頂く事を願っております。

小林先生、お疲れさまでした。そして、本当にありがとうございました。

服部正長男 服部 賢

「ラジオ体操とSDGs」で番組公開

4/24(土)16:00~17:15、テレビ東京系で放映される「池上彰×SPORTS×SDGs」という番組で「ラジオ体操とSDGsの知られざる歴史秘話」というテーマで「日本のラジオ体操」が取り上げられるそうです。
実はこの番組のスタッフからご連絡を頂き、ラジオ体操第一作曲者としての服部正の画像を頂戴したいとの依頼を2か月前に頂戴いたしました。
そもそも「SDGs」って何だ?という所からスタートする事になりますが、調べたところ「持続可能な世界を実現するための開発目標=SDGs」という事であり、「2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標」と出ていました。全部で17のカテゴリーがあり、その中でも「すべての人に健康と福祉を」という項目が書かれておりました。どうもこれに絡みそうだとは思いますが、なぜラジオ体操の作曲者の画像が必要になるような番組進行なのか、非常に気になりますね。

是非皆様も興味津々でご覧になってはいかがかと思いご紹介させていただきました。
服部正のラジオ体操第一第3版(1951年作曲)当時と思われる画像をご提供させていただきました。

今日(3/17)は服部正の誕生日です!

113年前の今日、服部正は東京の神田で生まれました。
100歳で死去しましたので、もう13年も経ってしまいました。

そして皆さんが今やっている「ラジオ体操第一」がスタートしたのが1951年3月であり、こちらはちょうど70周年を迎えます。
70年も同じ音楽のもとで同じラジオ体操がつつがなく流れているのも、日本人の律義さ、勤勉さを表しているのでしょうか。
あのピアノの前奏が流れた瞬間に「体操だ!」と体が条件反射的に動いてしまう方も少なくないと思われます。そういった意味でも日本人の健康に微力ではありますが貢献させて頂いた、という気持ちも親族としては嬉しく思っております。



この記念切手は以前もご紹介しましたが、そもそものラジオ体操第一が出来た1928年から50周年の1978年に発行されたものです。(この時の作曲は福井直秋氏)
それを考えると「ラジオ体操」そのものが生まれてからもうあと7年で100周年になってしまいますね。


皆さんのおかげでまだこのラジオ体操は続いており、これからも是非応援して頂ければありがたく思っております。

「キネマ旬報」映画音楽の本

以前DU BOOK関係者からご連絡を頂き、「キネマ旬報の連載の中で『日本の映画音楽』に特化した記事をまとめて書籍化するのでご協力を頂きたい」というお話でした。
特に服部正は戦前から映画音楽とは密接な関係を持っており、トーキー映画からPCL、そして日活、東宝といった映画会社、さらには「次郎物語」の島氏、「虎の尾を踏む男達」の黒澤明氏といった大監督との付き合いに発展していきました。
キネマ旬報では服部正は個別に2回取り上げられ、また他の作者の項でも取り上げて頂いておりましたが今般刊行に至り、出版社より謹呈を受けました。

日本映画音楽史を形作る人々 アニメーション映画の系譜

著者の秋山邦晴氏は音楽評論家で、この映画音楽に実際携わった人々と直接接したりして文章そのものにも大変深い感銘を与えてきたと言われています。

内容を拝見すると、かなりの部分が自著の「広場で楽隊を鳴らそう」から取り上げられておりますが、秋山氏独自の視点でのコメントも書かれており、なかなか興味深いものでした。

取り上げられている作曲家は服部正の師の「菅原明朗」をはじめ「黛敏郎」「芥川也寸志」「山田耕筰」「深井史郎」「武満徹」等およそ日本の名作曲家がほぼ網羅されていると言っても過言ではありません。

服部正のページ






この書籍は600ページを超える内容であり、金額は税抜きで5,800円とされております。

DU BOOKS社のご厚意でこちらでも多少の割引での斡旋は可能ですが、いかんせんかなり物量の大きな書籍ですので送料もある程度かかるため一般ルート(書店、通販等)でのご購入でもそれほどの差が無いと思われます。
もしご関心をお持ちの方は是非ご検討下さい。

新年のご挨拶

2021年 謹賀新年

皆様、旧年中は大変お世話になりました。

新型コロナウィルス感染症が終息化の兆しが見えない中、素直に「明けまして、、、」と言いづらいのが昨今の状況と思われます。12月中は様々な別件対応で当館も新たな投稿が出来ず、ご心配をおかけしたかもしれません。家族を含め感染者は出ておりませんので、取り急ぎご案じ無き用お願いいたします。

昨年は感染症の影響で「音楽界」も大変な逆風の嵐に巻き込まれました。軒並み演奏会は中止、演奏家も活動の幅が一気に無くなり大変ご苦労されていると思われます。
一方でアマチュアの活動家も大きなイベントが挙行できず、特に学生団体は最高学年の方々が「卒業演奏会」も出来ずに大変つらい思いをされたのではとお察ししております。

とは言え昨年は当館にとってもなかなか意義深いエポックがいくつかございました。

コンコルディア様による、服部正の長く埋もれていた戦中の作品「陸を行く」の再演がきっかけで、この曲に対し様々な方から高評価を頂きました。年末にも関西のB-One様が服部正の大学卒業直後の作品「デッサン」を取り上げていただきました。こちらは残念ながら感染症拡大第三派のため演奏会自体が中止になってしまいましたが、それまで団員の方が一生懸命練習頂いたことを思うと頭が下がる思いです。どちらも出身母体である慶應義塾マンドリンクラブと縁がそれほど強くない事が大変有意義で、日本のマンドリン音楽界でもまだ服部正という存在に目を向けて頂いている事に、大変感謝の気持ちを強く持ちました。

一方で「京都府立医科大学 学歌」につきまして本資料館にてご紹介したところ、ご卒業の皆様の中でフレーズの違和感があった事で真相究明をされていた事が分かり、その解決に向けた方向性が見えたことに望外の謝意を頂き大変恐縮したこともございました。この曲も戦前に生まれた曲で、当時の曲に昨年はかなりスポットライトが当たったように思われました。

今年もまだ感染症対応が続く中、音楽活動も全面的に再開できる見通しが難しい中で、当館としても地道に活動を続けていきたいと考えております。

皆様もご健康を第一にお過ごしください。

本年もよろしくお願い致します。

館長 服部 賢

服部正作編曲、指揮のSPレコード発見!

ラジオ体操や世界名曲シリーズ

服部正 作編曲のSPレコード類

先日慶應の先輩の方からご連絡を頂き、服部正の作編曲のSPレコードがあるので寄贈したいとのお話を頂きました。
大変ありがたいお話なので快諾させて頂きましたが、ほどなく厳重に梱包された宅配便が到着し、SPレコード4枚と、ご丁寧にその音源を再生し焼き付けていただいたCDまで頂戴いたしました。
さすがに当家ではSPレコード再生手段が無かったので大変ありがたく、早速聞かせていただきました。

ラジオ体操は現在聴いているよりも前奏がゆっくりでしたが、体操が始まると現在とほぼ同じテンポで、非常にシンプルなピアノ伴奏版でした。付点音符が「ユルメ」のややのんびりムードにも聞こえました。
一方裏面に入っていたオケ伴奏版は、何と今話題の「古関裕而氏」の編曲によるバージョンで、まさに「古き良き時代」の音が再生されていました。

世界の名曲シリーズは全部で3枚のレコードに「お江戸日本橋」「さくらさくら」に始まり「ヴォルガの舟歌」「サンタ・ルチア」「ラ・パロマ」「庭の千草」「おおスザンナ」等世界各国の有名なメロディを次から次に並べて演奏しており、服部正が古くは「青年日本交響楽団」、「広場のコンサート」そして晩年の慶応義塾マンドリンクラブ、グレース・ノーツで繰り広げた「世界の音楽」を再現したような雰囲気が醸し出されていました。
それぞれ「コロンビア」「ビクター」のレコード会社が編成するオーケストラを使っておりましたが、このような貴重なレコードがあった事は大変有意義であり、寄贈頂いた田端様には格別なる御礼を申し上げたいと存じます。

これを機に一時期お届けした遺品シリーズのレコードの中で、自身の指揮、編曲等の録音がいくつか残っておりますので、またこれらを皆様にご紹介していこうと思います。

「デッサン(Dessin)」90年振り陽の目

B-one演奏会のご案内

以前服部正の「斑蝶」を演奏して頂いたB-one絃楽合奏団が、この度12月に大阪にて演奏会を開催し、またもや服部正の作品を発掘していただき演奏して頂くことになりました。
演奏される曲は「Dessin(デッサン)」という曲で、残念ながら当館では譜面は見つかりませんでした。

絃楽合奏団 B-one 第16回演奏会のご案内チラシ

この「デッサン」と言う曲は慶應義塾マンドリンクラブ第37回定期演奏会(1931年11月16日)に初演されました。しかしながらその後は慶應の演奏会には登場してこなかったようです。
ところがその翌年の1932年に同志社大学マンドリンクラブがこの曲を定期演奏会に取り上げていただいたそうです。今回B-oneにて演奏頂く譜面も恐らくこの「同志社ライン」での調達と思われ、敬意を表したいと思います。当日は服部正の師である菅原明朗氏の弟子である「西田直道氏」が指揮を執ったとB-oneの今回のデッサンの指揮を執って頂く辻本氏からご教授頂きました。多分菅原先生からのお薦めでもあったのかもしれません。

昭和6年(1931年)服部正の個人日記

実は服部正が書いていた日記に、この初演当日の日の書き込みがありました。
これが実に興味深い一節が書いてありました。
「11月16日
 第37回の演奏会。感謝がある。
 菅原、武井両氏を迎える(菅原明朗氏、武井守成氏の事と推測)
 ああ、僕もこれで6回目の音楽会(第32回が初指揮者としてデビュー)
 実に慶應のために何かをしたと自信した。これはうぬぼれではない。」
 ここまでは何となく前向きなトーンでした。
ところが後半は雰囲気が全く変わりました。
「僕の曲(デッサンの事)はつまらなかった。
 ファルボ、ストラヴィンスキー、ミラネージは大失敗(当日の曲の作曲者)
 後で明朗達とお茶を飲む。楽しい、苦い思いで」

まず「大失敗」に上げられた3人の曲でも「ストラヴィンスキー」は当日来られていた菅原先生の編曲によるものであり、最後の「苦い思いで」の背景には先生の編曲作品がうまくいかなかった事にあるのではと思われます。
そして肝心の「デッサン」についても自作を酷評しており、譜面がこちらに残っていなかったこと、その後の慶應の演奏会に取り上げられなかったのも、何となく「気が進まなかった」ような気持が心のどこかにあったのでは、と思います。

そんな「デッサン」に89年振りに陽を当てていただきましたB-one絃楽合奏団の皆様、指揮をお執り頂く辻本様に心より感謝を申し上げたいと存じます。

このコロナ禍で演奏会開催もままならぬ中ですが、もし関西地区の皆様でご関心がある方はいかがでしょうか?
当日は服部正がKMCでもよく好んで取り上げていた「ボッタキアリ 交響的前奏曲」もやられるそうです。
絃楽合奏団B-oneホームページ