新年のご挨拶、予告編(?!)

皆様、あけましておめでとうございます。

おかげ様で当HP来訪者も地道に伸びており、このHPをきっかけにして様々な出会いが生れました。
今年も様々な角度から「服部正」のご紹介をして参ります。
まず「作品の紹介=直筆譜のアップ」、そして「直筆譜の寄贈報告」、それから「服部正のエピソード」等を少しずつご紹介していきます。

年末にHPで出会った関係で当館所有の譜面の「そもそも」が明確になりました。
いずれその経緯を含めご紹介いたしますが、まず何よりもびっくりしたのは作曲を担当した短い漫画(今でいえばアニメ)が第二次大戦のさなかに作られていた事です。その内容も子供の「情操教育」的なストーリーであり、かたや日本国存亡をかけ戦っている若者がいながらこんなディズニー映画ばりの、しかもこれだけ明確なキャラクターのアニメを作っていたという事は信じられませんでした。

その動画名は「アリチャン」と「アヒル陸戦隊」です。

ここには動画提供サイトからワンカットをご紹介します。

上が「アリチャン」、下が「アヒル陸戦隊」です。

その関係先のミッションが一般に明確になった時点で当館の作品紹介にアップさせて頂こうと思っております。

皆様、本年も宜しくお願いいたします。

今年1年ありがとうございました。

今年も残すところ後数日です。
本年1年間お付き合い頂き誠にありがとうございました。

今年はお蔭様で大変充実した年を過ごすことが出来ました。

まず新年いきなり「黒柳徹子のコドモノクニ」での「服部正編」の収録・放映、そして7月には服部正の作品を中心とした慶応義塾マンドリンクラブのOBオーケストラの演奏会、様々な学校や企業等訪問による校歌直筆譜贈呈でのエピソード。
そこには新たな出会いと発見が必ずありました。それらは何物にも代えがたい貴重な物となりました。

実はこの年末にも新たな動きが始まりそうなお話もあり、これについては先方の動きを見ながらご紹介してまいりますが、それなりにご覧頂いている方がいらっしゃる事に大変喜びと責任を感じております。

来年も地道にこういった活動を続けていくと共に、出会いから始まった様々なつながりを大切にしながら、さらに拡大できればと思っております。

皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。

 

服部正の休日・・・(8ミリ編)

今年の4月に「服部正の休日」という題で野球のお話を記載しました。
服部正自身は音楽以外に本当に趣味らしい趣味が無く、パチンコも賭け事(麻雀・競馬等)も全くしませんでした。将棋は多少やりましたが、特に相手を探して外出するような事もなく、また自動車の運転免許も持たないためドライブとは無縁でした。
そんな中で唯一好きだったのは8ミリの撮影でした。
当時からすると結構高かった機械を持ち、様々な所に演奏旅行や家族旅行に行った時に色々撮っていたようです。
自宅にも結構しっかりした8ミリ投影機を持ち、カメラ店で現像出来た8ミリテープを映画館のように部屋を暗くしてスクリーンに映して家族で見た記憶はかすかに残っています。その頃の8ミリは音声は無いので、無声映画を見ているような雰囲気でした。

遺品としての撮影されたフィルムも多少残っていたのですが、何しろ今この8ミリを投影する機械がなかなか入手できず、先般企業のサービスでDVD化して頂けることが分かったので、試しに1~2本やってみました。
テープリールに「〇〇旅行」と無造作に書いてあるものは避けて、ひょっとしたら服部正の仕事中の映像でもあるかと期待できる無記名のテープを企業に出しましたが、内容はやっぱり家族の撮影であり、今お子さんをお持ちのご両親が撮るような育児の記録的なものが殆どでした。
確かに考えてみれば「撮る事」が趣味の場合は自分が被写体になることはまずあり得ないので、これは「服部正としての画像遺産」にはなりませんね。
そのうち家族で旅行に行く事もほぼなくなった頃に、この8ミリ撮影機も陽の目を見る事はなくなりました。
下の写真は昭和30年代前半に慶応義塾マンドリンクラブの夏合宿で長野県の菅平に行った時に服部正が8ミリ撮影をしようとした時のものと思われ、多分マンドリンクラブ員が写真撮影して頂いた物だと思います。
(何故、昭和30年代前半と分かるのか?横に立っている子供は恐らく小生であり、逆算した結果です!)

 

服部正と映画音楽

服部正が本格的に映画音楽に手をつけ始めたのは昭和11年(1936年)、トーキー映画のバックミュージックの担当をしてからと自著には記されています。当時は映像は先に出来て、それに合わせて音楽を作る、という段取りだったらしく、少しでも早く上映したいがため作曲家には非常に厳しい納期を強いられていました。学生時代から早書きだった服部正も、そこでさらに磨きがかかったようです。
そして映画というものが日本に徐々に普及してきた事により服部正の映画関係の仕事も増えていきました。恐らく大小合わせて100は下らないだろうと思われます。
(たまたま「MovieWalker」という映画関連のポータルサイトがあり、そこで作曲家としての検索で服部正の作品群が出ていますので、ぜひご覧になってみてください。このサイトは1946年以降のデータしか載っておらず、それでも52作品ありました。)

やはり映画の話で語らずには出来ないのが巨匠「黒澤明」監督の作品でしょう。
歌舞伎の「勧進帳」をテーマにしたちょっとおどけた映画「虎の尾を踏む男たち」という映画で黒澤監督と初めてコラボレーション、この映画が当時としてはかなり当たった事もあり黒澤監督は次作も、という事でかの有名な「原節子」主演の「わが青春に悔いなし」という作品の音楽監督に推挙されました。
ところが、ここで黒澤監督のポリシーが基本的に服部正の考えと一致しない事が表面化してきたようであり、その次の作の「素晴らしき日曜日」で彼との作品は終わりになってしまいました。
黒澤監督は服部正よりも2歳若く、一緒に仕事をした時代は30代後半というそれぞれが血気盛んな頃でした。恐らく二人とも我が強かったのでは、と思われ妥協の産物ではなく、結局黒澤監督の意向に沿った3作しか服部正が作れなかった結果ではないかと思われます。
全く関係ない話ですが、黒澤氏も服部正も血液型が「B型」であり、上記を思うと「さもありなん」と勝手に思ってしまっています!

映画音楽そのものの譜面は映画会社が殆ど回収してしまったと思われ、遺品の譜面は映画音楽のジャンルは黒澤作品含めほぼ皆無でした。「次郎物語」のセレクションをマンドリン用に作りましたが、それもマンドリン合奏演奏会のために再アレンジした形なので譜面としては残っていますが原曲は存在していません。

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とりあえず、今DVD等で服部正が担当して入手できた物をご紹介します。「次郎物語」はVHSビデオでした。

きちんと残された「失敗作」

ある日譜面を整理していた時、思わず笑ってしまうような譜面が出現しました。
題名も「出来損ないの曲」!
マンドリン合奏のために書かれており、筆跡(譜跡と言った方が良いのか?)を見ると間違いなく服部正の戦後の作品と思われます。
3拍子の短調の曲ですが、ダルセーニョになるまでは順調に筆が進んでいたのでしょうか、万年筆でいつもの通り書いていたようです。
ところがコーダに飛んだところで鉛筆書きのデッサン的な書き方に変わってしまっており、しかもスコアと言いながらメロディーライン程度しか書かれていません。
そして唐突に譜面は終わってしまい、譜面の最下段に「これは失敗作」と明確に書かれた文字が付いていました。
題に書いてある「出来損ないの曲」も鉛筆で後から書かれたようであり、この曲にも様々な謎が潜んでいます。

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しっかり残された「出来損ないの曲」。右ページの最下段に「これは失敗作」と明記

まずいつ頃の作品なのか?譜跡からすると昭和4~50年代ではないかと思われます。
何のために書かれたのか?これは全く不明です。
何故失敗作にもかかわらず題名部に「出来損ないの曲」とか最後部に「これは失敗作」と書き廃棄処分にしなかったのか?ますます不明です。
ひょっとしたら部分的なフレーズはまた別の機会に使えるかもしれない、という事で残したのでは、という推測もできます。
しかし以前記載した「同じ曲の編曲が複数存在」という事実から「以前の譜面を探すよりも自分で再度作った方が早い」という憶測もあるため、この譜面を残しておく必要性がどこまであったのか不思議に思ってしまいます。
ただ、言える事は譜面に限らず「捨てる」という行為はあまり服部正の日常行為では見かけなかったため、誰も捨てずに今日まで残ったと言う方が正しいかもしれません。

とにかく筆が早い服部正、放送局等からの要請にせっせと作編曲を行う中でも、このような試行錯誤の部分もあった、と思わせる何となく人間的な一面ものぞかせる作品でした。

 

服部正の海外活動(3)-慶応義塾マンドリンクラブ海外演奏旅行(豪、マレーシア)

1975年春先に服部正は慶応マンドリンクラブの選抜メンバーで初めてオーストラリアへ演奏旅行に行きました。シドニーのスキナー氏、メルボルンのエバンス氏というそれぞれ現地のマンドリン合奏団のリーダーと連絡を取り合っての訪問でした。今でこそオーストラリアというと海外旅行の定番ですが、当時はまだ高価であった事とコアラ・カンガルー以外のめぼしい観光資源がそれほど日本で紹介されていなかったこともあり、服部正含めほとんどのメンバーが初めてでした。
シドニーに着陸すると現地のテレビ局がお出迎え、早速インタビューという段取りにびっくり。その後お世話になる家族との対面になりました。オーストラリア側もこちらの定番のホームステイでの受け入れは初めてらしく、双方とも最初は緊張気味でしたがすぐに打ち解け「こんなに楽しいとは想像できなかった」と現地の方々もお喜び頂きました。
そして何と有名なオペラハウスが出来て1年半しかたっていない時に、その大きなコンサートホールで演奏する事が出来たのです!。コンクリートの匂いがまだ残っているほど新しいホールでした。
服部正もこのスキナー氏、エバンス氏とのやりとりをかなり頻繁にやった事で演奏旅行全体がつつがなく終える事ができ、帯同した団員も当時の留守番部隊のメンバーから帰国後羨ましがられる一方でした。

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シドニー空港インタビューとオペラハウスでのリハーサル準備の状況

それまで慶応マンドリンクラブの演奏旅行は様々な要因で国内含めある期間行われていませんでしたがこのオーストラリアでの成功をきっかけに国内各地の演奏旅行が復活し、前回ご紹介したアメリカへの複数回の演奏旅行の実現となりました。

その後日本・マレーシア協会の関係で現地訪問の話が持ち上がり、1984年の夏にマレーシア・クアラルンプールへの演奏旅行が実現されました。
ここはさすがにホームステイという段取りは無理だったのでホテルに約1週間近く泊り、演奏会等を開催、当時のマハティール首相も演奏会にご来臨され、かなり国を挙げてのイベントとなりました。
8月の猛暑の時期だったので大変暑かった事と、日本と時差1時間というもののその時差帯の最西端のためいつまでたっても夜が暗くならないのに困惑してしまいましたが、何とか予定のスケジュールを無事終えて帰国できました。服部正は当時76歳という高齢でしたが、この暑さの中でも何食わぬ顔ですべてのイベントをこなしていました。

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マハティール首相来臨のクアラルンプール演奏会

オーストラリアもマレーシアも共に元イギリス領だったため、英語でほとんど通じる事と一番ほっとしたのは自動車が日本と同じ左側通行だったことです。ただマレーシアはイスラム教が広く普及しているためビールを飲むのにかなり苦労しました。
服部正もアメリカ以外の国とのこのような演奏旅行はあまりしたことが無かったものの、いつもと同じ雰囲気でステージで振舞い団員をリードしていました。

服部正の海外活動もこれが最後でした。お疲れ様でした。

 

「慶応義塾高等学校の歌」自筆譜の寄贈

東急東横線日吉駅を降りて東側に出ると、そこはもう慶応義塾のスペースが大きく広がっています。ダラダラ坂の銀杏並木を登りつめて開けた右側にいかにも昭和初期に作られたようないかめしい建物があります。この建物が今回お邪魔した「慶応義塾高等学校」です。正面玄関はさらに右奥に入ったところにあります。

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慶応義塾高等学校校舎(右側は正面玄関)

実は先般オールKMCの練習の際この校舎をお借りしたのですが、「ここの学校の歌は服部正が作ったのだ!」という事を殆ど失念しており、「自筆譜贈呈」対象先という事をその時に気付いたというお粗末な話でした。
しかも自分の母校であり、あまりにも存在が近すぎたため逆に他校ばかり気にしてしまっていました。塾高(慶応関係者はこう呼ぶことが多いです。)の幹部の方々、大変失礼いたしました。

この「学校の歌」というのがミソであり、正式には「校歌」ではないのです。
最近この学校は日本で一番競争の激しい神奈川県の高校野球で時々甲子園に行っているぐらい野球部のレベルが高いのですが、甲子園で勝ったときに流れる校歌は、オール慶応の校歌とも言われる「塾歌」であり、この「学校の歌」ではない、という非常に微妙な立ち位置の曲になります。1968年に塾高創立20周年を迎えた時、たまたま当時の校長が慶応義塾マンドリンクラブ出身で服部正と非常に懇意にして頂いた千種先生という方で、「ぜひ高校の歌を作ってほしい」という要請を受け作曲しました。作詞は村野四郎先生で、この歌を作るときに関係者で話しあい「様々な学校の校歌は2番とか3番はあっても歌わない事が多いので、この曲は長い1番だけの曲にしよう。」との奇想天外な発想のもとで作られました。普通は1番だけでは1分弱程度なのですが、この曲は1分40秒かかっています。

当日はたまたま今回の寄贈の段取りをお取りいただいた本校の教諭が慶応義塾マンドリンクラブのOBの方で、まずお迎えいただきました。そして校長室に伺うとものものしい人の数、、、。
どうも今回の寄贈について自校で発行している刊行誌に載せるというので校長先生だけでなく関係者、そしてカメラマンまで、、、。こりゃかなり大袈裟な事になってきたな、とやや緊張してしまいました。再来年創立70周年を迎えるので、かなり皆さん気合が入っているようです。
とはいうものの校長先生他皆様暖かくお迎え頂き、とても楽しいひと時を過ごさせていただきました。最後に「服部さんの高校在学中のエピソードは何かありますか?」と問われ、譜面の話とは違った想定外の質問に面食らってしまいましたが、、。
この校舎は戦中、戦後に軍や駐留米軍の施設としても使われた遺構として横浜市の史跡としての指定を受けているらしく改築等が出来ないとの事で、小生が通学した時(40年以上前)と校舎そのものは殆ど変わってなく、大変懐かしく感激いたしました。

贈呈した譜面の中には服部正が自筆したオーケストラパート譜まであり、塾高で作ったレコードにもイベントで挨拶した服部正の肉声が入っているという貴重な内容であり、校長先生をはじめ皆さん大変お喜び頂けました。
校長先生、関係の皆様、本当にありがとうございました。

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「慶応義塾高等学校の歌」直筆譜と17cmレコード

余録

実はパート譜にはヴァイオリン、チェロ、フルート等通常のオーケストラの編成が揃っていましたが、「ファゴット」と「ホルン」の譜面だけが何故かありませんでした。
当時の塾高のオーケストラにファゴットとホルンの部員がいなかったのか、演奏後その楽器の部員が返却し忘れたのか、単純に失くしてしまったのか、これも謎です。
列席した先生の一人が「このレコードの写真でその楽器の有無がわかるかも」とおっしゃっていましたが、写真を見ると間違いなくファゴット奏者はいるようなので、「部員がいなかった」という説はなさそうでした。

鷲宮中学校校歌直筆譜の寄贈

「鷲宮」と聞いて反応する若い人がいたら、きっとアニメファンかもしれません。約10年近く前に一世を風靡したアニメ「らき☆すた」の舞台となった神社「鷲宮神社」がある所です。
(アニメでは「鷲」が「鷹」に名前が変わっているようです。小生は恥ずかしながらアニメ方面に大変疎く、こちらに参上して初めて知りました。)
その鷲宮の「鷲宮中学校」校歌が服部正の作曲であり、今般お邪魔して参りました。

朝起きて多少胸騒ぎがしたので30分早めに家を出ましたが、案の定電車が遅れに遅れ、待ち合わせのJR東鷲宮駅に着いたのが予定時刻の10分前。ヒヤヒヤものでした。
駅から教頭先生に学校まで車に乗せていただき、ほどなく学校に到着、校長にお迎え頂きました。先週訪問した菖蒲南中学校と同じ久喜市ですが、奇しくもこの鷲宮中学校も久喜市であるだけでなく、校歌の作詞家が同じ安積得也先生でした。校歌の制定はこちらの鷲宮中学校の方が早く、たまたま今年統合50周年をお迎えするタイミングでこの直筆譜をお渡しすることが出来ました。11月に統合50周年の大きなイベントがあり、それに向けて全校で様々な活動をされているとのことであり、校歌についても個別のパンフレットをお作り頂いていました。

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いろいろとお話を聞いていて感動したのは中学校に「神楽」をやられるクラブ活動がある事でした。ここの鷲宮神社では「土師一流催馬楽神楽」という国指定無形民俗文化財が制定されていることもあり、この中学校では正式にクラブ活動として取り入れ、東京スカイツリーや大宮ソニックシティ等の外部でも演じた事があるという、かなり本格的なものだそうです。中学校で「神楽」を「見る」事はあっても「演じる」事はあまり聞いた事がなく、こういった伝統芸能の継承という面で素晴らしい事ではないか、と感じました。
折角ここまで来たので無理をお願いし、帰路の途中でその「鷲宮神社」に寄らせていただきました。
平日の昼間という事で参拝客はあまりおりませんでしたが、逆に静かな佇まいの中とても威厳のある境内を歩くことが出来ました。たまたま七五三詣でのご家族連れがいらっしゃり、境内から太鼓の音が心地よく聞こえてきました。
本堂の向かい側にはその「神楽」を奉納する舞台が置かれ、非常におごそかな気分になる事ができました。

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鷲宮神社
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神楽奉納舞台

鷲宮中学校 校長先生、教頭先生、そして関係の皆様、種々お心遣いありがとうございました。
そして統合50周年、誠におめでとうございます。益々のご隆盛をお祈り申し上げます。

菖蒲南中学校校歌直筆譜の寄贈

埼玉県の中央部に「菖蒲」という地域があります。JR等の鉄道の駅が無いので知る人ぞ知る所ですが、私は以前さいたま市に住んでいた頃家族でいちご狩りをしに行ったので親近感を持っています。一番近い駅が高崎線の桶川駅ですが、気付いてみたら市町村合併で「久喜市」になっており、久喜の中央官庁は宇都宮線沿線なので久喜市のかなり端っこに位置する町となってしまいました。
そこにある「菖蒲南中学校」の校歌を服部正が作曲しました。そのご縁で今般お邪魔して自筆譜の寄贈をして参りました。

桶川駅まで教頭先生にわざわざお迎え頂き、車で20分程度で学校に到着、校長先生に迎えて頂きました。
校長室の中にお邪魔すると何と服部正の自筆の色紙が飾られてあり、聞いたところ校歌が出来た頃にここの学校に服部正がお邪魔し校歌披露式をやった時に書いてもらった、とのことでした。当日は校歌を歌う時に自ら指揮をした、とのエピソードも語り継がれていました。この色紙の横に貼ってある新聞の切り抜きは服部正の訃音の記事であり、ここまで服部正の事を見ていて頂いていることに大変感激致しました。

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校長室の服部正の色紙

そしてわざわざ全校生徒を集めた、というので恐る恐る体育館に向ったのですが、全校でも150名前後というコンパクトな中学校であり、まずは気分も一安心。校長先生の過分なご挨拶に始まり、最後に全校生徒で校歌を熱唱して頂きました。150名でも十分に体育館に鳴り響く素晴らしい歌声でした。歌っている生徒の皆さんの表情を見ても、とても素朴で素直な表情に見え、校長先生や教頭先生も「本当にいい生徒たちが集まっている」とおっしゃっていたことが実感として体にしみわたりました。

校長先生、教頭先生、お迎え頂いた先生各位、そして素晴らしい歌声を聞かせて頂いた生徒の皆さん、本当にありがとうございました。

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服部正の海外活動-(2)慶応義塾マンドリンクラブ海外演奏旅行(アメリカ)

服部正は慶応義塾マンドリンクラブを率いて過去9回の海外演奏旅行を行いました。
最初の第1回目は全日本マンドリン連盟主催として他大学マンドリンクラブと合同の演奏旅行を1963年にアメリカに向け行われましたが、その後慶応義塾単独でアメリカ6回、オーストラリア1回、マレーシア1回行われました。
アメリカはほとんどがカリフォルニアであり、当時服部正と昵懇であったサンノゼ在住のピサノ博士の全面的な支援を受け、当時としては異例の「団員全員各都市短期ホームステイ」という形での演奏旅行でした。
ロサンジェルス、サンフランシスコ等の大都市からベーカースフィールド、サンルイスオビスポといったカリフォルニアのローカル都市にも行きました。
ここでも服部正は積極的に現地の人たちとのコネクションを取りながら、それぞれの都市でほとんど毎夜演奏会を実施、現地の人たちとの交流も団員全員で実現、当時の大学生としてはかなり特異で貴重な経験だったと思います。

(1976年(恐らく)サンノゼにて)
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ロサンジェルス訪問の際は必ずと言っていいほど「ディズニーランド」でのステージが組まれており、演奏終了後はギャラの代わりに園内のアトラクションに乗れるチケットを団員全員に配っていただき、充実した1日をおくることができました。

(1982年アナハイム ディズニーランドにて)
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当時は学生だけでなくOBも参加しており、そのOB達は会社に2週間ほどの休暇願を特別に許可頂き帯同することになりましたが、そのOB達のためにも服部正はそれぞれの会社の幹部にお願い状を率先して書き送っておりました。

服部正もこういった演奏旅行が単なる物見遊山だけでなく、演奏技術の向上と現地の方とのコミュニケーション力向上を見据えたプランニングをしていたと思います。
確かに同じプログラムを約2週間ほぼ毎日本番をやれば演奏技術や舞台度胸も日に日に向上していき、ホームステイの家族の皆さんや来場したお客様との会話もどんどん増えていくことができ、帰国した時は団員皆一回り大きくなったように思えました。

こういった演奏旅行では服部正は当時としたらもう60から70を超えていた年にもかかわらず、毎日元気にステージで指揮をしたりたどたどしさはあるものの英語で司会もしていたという、今から思えばとんでもないツワモノでした。

次回はアメリカ以外のご報告を致します。