マンドリン向け編曲の妙:服部正が好んだ作曲家 ヨハン・シュトラウス

服部正は慶應義塾マンドリンクラブ(KMC)の定期演奏会で第32回から第150回までの約120回近く(60年以上)にも及び指揮をしており、その中で様々な作曲、編曲の作品を提供していました。
中でも好んで編曲したクラシック作曲家の中に「ヨハン・シュトラウス」がおり、父、弟の作品も含めてかなりの数の「ウィンナワルツ」や「ポルカ」の編曲をしており、KMCの定期演奏会に何回も登場した曲もあります。

<ワルツ>
美しく青きドナウ、ウィーンの森の物語、皇帝円舞曲、南国のバラ、他
<ポルカ>
雷鳴と電光、狩のポルカ、トリッチ・トラッチポルカ、鍛冶屋のポルカ(ヨゼフ)、休暇旅行で(ヨゼフ)、とんぼ(ヨゼフ)、他
<その他>
「こうもり」序曲、「ジプシー男爵」序曲、ラデツキー行進曲(父ヨハン)、歌劇「こうもり」から各種アリア等

同時代のスッペ、レハール等の序曲やワルツもいくつか編曲しており、ウィンナワルツ系は非常に親近感を持っていました。
明るく聞きやすい曲という事で服部正の作風にもマッチしていたのでしょう。これらの曲は殆ど戦後の作品で比較的晩年に編曲された曲も多く、特に1970年代以降の演奏旅行ではこういったワルツ、ポルカを必ずと言って良いほど取り入れていました。

実は来る10月14日(土)にすみだトリフォニーホールにて恒例の「オールKMCコンサート」が予定されており、ここで服部正編曲の「皇帝円舞曲」をKMC三田会(OB・OG演奏団体)で演奏する事になりました。

シュトラウス 皇帝円舞曲の自筆の編曲譜

「昔取った杵柄」ではありませんが、こういった曲になると俄然年配OB・OGも張り切って演奏します。もしご関心をお持ちならばぜひご来場ください。(まだ具体的なチケット販売等は現状不明ですが、一応「お問合せ」頂ければ対応検討致します。)

音楽三田会レクチャー&コンサートのご案内(*慶応関係者以外もご参加歓迎!*)

「音楽三田会」と言う組織があります。
これは「音楽学部」らしきものが無い慶応義塾の卒業された方が比較的多く音楽業界で活躍されていらっしゃり、そういった方々のOB会的存在になります。
実は服部正も第2代の会長であった時がありました。
今回「歴代会長の業績シリーズ」という企画をこの音楽三田会にて実施することとなり、中身は「講演」と「演奏」という2段構えとなっています。
そしていきなり第1回目として「服部正」が対象となってしまいました(!)。

日時:11月5日(日)14:00~
場所:古賀政男音楽博物館内「けやきホール」(代々木上原駅)
<入場無料>(音楽三田会HPよりメール申込にて整理券発行)
内容:レクチャー・「わが父 服部正」(服部 賢)
...コンサート「服部正のマンドリン音楽」
....①肝付兼美氏 マンドリンソロ 服部正「海の少女」、他
....②KMC三田会アンサンブル 服部正「荒城の月幻想曲」他

本件につきまして詳しくは「音楽三田会」のHPにご案内が載っておりますので、是非ともご覧ください。(申込要領もそこに記載されております。)

尚、本HPでは慶應義塾マンドリンクラブご卒業の方を対象に整理券の受付も対応する事になりましたので、関係の方はこちらからお問合せお願いいたします。
(一般の方々につきましては音楽三田会側からのお申込みにてお願いしておりますが、当館でも対応致します。上記問合せリンク先の要領をご覧ください。)

会場がそれほど大きくないので予定数に達しました場合は締め切り(10/20予定)前にお申し込みを打ち切る場合もございますので、予めご承知おき下さい。

 

KMC三田会定期演奏会来場御礼

8/26に東京オペラシティにてKMC三田会定期演奏会が滞りなく行われました。
ご来場いただいた方には心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
そもそも ホルストの惑星の一部をマンドリンオーケストラでやる事自体かなり「無謀」と思われましたが、とにかく大きな破綻なく最後まで行きました。

本当に「老若男女」の勢揃いであり、特に高齢の方の頑張りには頭が下がりますね。
まだまだ元気でマイペースで続けながら、若いメンバーとの接点も確保できる事がの長寿の秘訣と思います。

また来年も宜しくお願いいたします。

第6回慶應義塾マンドリンクラブ三田会定期演奏会 ステージリハーサル風景

服部正のトレードマークについて

服部正は様々なところでサインをするときにトレードマークを自筆で書いたりしていました。このWEB資料館もそのトレードマークをそのまま使わせて頂いております。
このトレードマークがすべて音楽記号で出来ていることは以前触れたと思います。

具体的にどうなっているか、再度ご紹介しましょう。

上記の通り髪の毛がフォルテ、目玉はフェルマータ、耳がフラット、鼻がターン、口はアクセント、首はシャープです。上記には書いていませんが、あごからほほにかけてはスラーということになります。

これは以前ご紹介した自筆譜贈呈の際に伺った学校の校長室に飾ってあったものです。

以前「焼き物」にもして頂いて頂戴したこともございました。
これはさらにトレードマークの「パイプ」まで入っています。
(パイプは「音符」にも見えますね)



譜面にも登場します。

よ~く見ると「面長」だったり、逆に「丸顔」に近かったり、髪の毛の位置等書いている時の環境や気分によって微妙に変わってくるようです。

普通は締め切りに間に合わせるべく必死に譜面を書きまくっていたので、サインやトレードマークが入っている譜面はよほど納期や気持ちにゆとりがあったのでしょう。
それとも書き終わってから「う~ん、もう少し手を入れようか?」と悩みながら何となく書いていたのかもしれません。
ちなみにNHKに納めた譜面はこういったトレードマークは皆無でした。(もちろん納期が厳しかった事もあるでしょうが、受け取られた側から「ふざけるな!」と叱責を受けるのを未然に防いだのかもしれず、こればかりは不明です!)

仙台育英高校 初戦突破!(高校野球)

高校野球の季節がやってきました。
今年は宮城県代表として仙台育英高校が勝ち進み、本日北北海道代表の滝川西高校と争われました。
序盤から着々と得点を重ねた仙台育英高校がまず初戦突破し、校歌が流れました。

(NHKテレビ実況中継画面撮影)

是非次も勝ち進んで頂き、何回も甲子園で校歌を流していただければと思います。

以前当資料館でもこの校歌の話題に触れ、そもそもの原曲は昭和5年にまだ服部正が慶應義塾の学生の時代に作られた事をご紹介しました。その時の「謎」はいまだ解決しておりません。(どのような経緯で当時慶應の大学生であった服部正に校歌の作曲の依頼があったのか?)
これは今後ひょっとしたら意外な展開で真相がわかるかもしれませんので、その時を楽しみに待っております。
しかし87年前に作られたとはいえ、勝利の時に流れる曲としては非常に相応しいような曲想で今でも十分評価されるのではないでしょうか?

私事で大変恐縮ですが、今日(試合当日8/12)が小生の誕生日でした。台風の影響で一日開催がずれた結果で思わぬ誕生日プレゼントとなりました(?!)。

慶應義塾マンドリンクラブ三田会定期演奏会

昨年の今頃「服部正」の作品を中心とした定期演奏会をやっていただいた「KMC三田会」の定期演奏会がまた1年経ち開催されることになりました。
今回は服部正の関連する曲目はほとんどありません。
ただ、服部正の音楽の道の始まりでもあり、終点でもあった団体のOBが参集して行われる演奏会なので、ご案内申し上げます。

日程は8月26日(土)14:00開演で、昨年と同じ京王新線の「初台駅」にある「東京オペラシティコンサートホール『タケミツメモリアル』」で行われます。
まさに「老若男女」が揃って同じステージに乗るべく、卒業して間もないメンバーと80歳に迫ろうとしているメンバーが一堂に会し、今や練習に明け暮れています。
かねてから服部正も現役メンバーの演奏会にOBを重用していた時代が長く続いていました。幅広い年齢層でのコンサートの実現が可能なのも生前服部正が長期間にわたって常任指揮者を務めたことで、このようにOBの縦のつながりが今でも強く残っているのが最大の特徴であり、かなり演奏困難な曲でも年配の方々はマイペースで一生懸命参加しています。
そんな姿をぜひご覧いただければと思います。
チケット関係の扱い等お問合せがある場合は当HPの「お問合せ」にてご連絡下さい。

マニアックな楽譜集め、若き日の服部正

まず皆さんはこの作曲家をご存知ですか?
「マリピエロ(MALIPIERO)」
ご存知だったら相当のクラシックファンか、さもなくば究極のマニアックなコレクターと言えるでしょう。
服部正の遺品の中に、若き日に購入したおびただしい譜面(スコア)があり、当然ベートーヴェン、モーツァルト、チャイコフスキー等の管弦楽作品が多数ありましたが、その中に私も今まで聴いたことのない「マリピエロ」という作曲家のスコアが4冊も残っていました。

まだ自分も若い頃に父のスコア群をちょこちょこ拝見していたのですが、「マリピエロ」という作曲家のスコアが4冊もある、というのは他の有名な作曲家のスコアでも2~3冊という蔵書を考えるとさぞかし有名な作曲家だったのかな、と勝手に当時は思っていました。しかし年を取るにつれ、いつまでたってもその「マリピエロ」という作曲家の作品と出くわした事もなく、いったい何者か?とだんだん思ってまいりました。

マリピエロは1882年から1973年まで約90年もの生涯を送ったイタリアの作曲家ですが、正直言ってヒット作はほとんど無く「知る人ぞ知る」作曲家です。なぜこんな作曲家のスコアが4冊も服部正のところにあるのか、これまた「謎」です。
可能性があるのは「菅原明朗先生」との出会いから様々な作曲家の作品の話を聞き関心が高かったものを購入した、と考えられ、そうすると菅原先生の見立てのカテゴリーがかなりマニアックであったのでは、と想像できます。
またこの4曲とも作られたのは1920年前後であり、恐らく購入したのが1920年代後半と思われるので「出来立てのホヤホヤ」状態の作品のスコアが日本に輸入されていて、食指を動かした可能性も高いと思われます。

さて、はたしてどんな曲なのか?スコアを見ても近代・現代作曲家なのでなかなか頭の中で音が再現できません。何とかCDを見つけ、こういう場合は「百聞は一見に如かず」ではなく「百見は一聞に如かず」がベストと思いスコアを見ながら聴いてみました。

正直言って「有名になりそうな曲」とは思えず、何となく掴みどころのない、でもそれほど「現代的な不可解」では無い曲でした。しかし当時はこんなCDはおろか、レコードだって有名な曲しかない時代ですから、こんな曲のスコアを買ってうつつを抜かしている服部正は、やはり「マニアックだった」のかもしれません。

同じように服部正のスコア保存譜では「オネゲル」や「ルーセル」といったフランス系作曲家や、有名な作曲家でもマイナーな曲(例えばサン・サーンスの交響曲第1番)等があり、若き日は相当菅原先生を始めとして色々な影響を吹き込まれた可能性がありそうです。
また、学生の頃の日記でも「新響(現N響)の演奏会を聴きに行った。やはりオネゲルは良い曲だ」との記載が発見され、この若さで「オネゲルに心酔」しているのははっきり言って相当「ませた」とか「偏屈」な学生と言われそうですね。

 

 

訃報 作曲家 横山菁児先生

本日(2017年7月11日)作曲家の横山菁児先生がお亡くなりになったとの報を聞きました。7月8日肺炎にてご逝去されたとの事です。(享年82歳)
横山先生は服部正のそれほど多くない教え子の一人であり、広島に居を構えてご活躍でした。服部正の「お別れの会」ではわざわざ広島から東京までお越しいただき、また昨年のBS朝日放送の「黒柳徹子の『コドモノクニ』」収録に際しては多大なるご協力を頂き番組でも過分なお言葉まで頂戴致しました。
横山先生と言えば「聖闘士星矢」の音楽であり、他にもアニメ音楽を数多く輩出していらっしゃり、学校の校歌も各地で手がけていらっしゃいました。
また、最近好調の「広島カープ」の応援歌の一つ「燃える赤ヘル僕らのカープ」を作曲されてもいらっしゃり、広島の郷土愛も強く持たれて地元の音楽振興にも一生懸命お尽くしになられた方でした。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

追伸
訃報によりお誕生日が「3月17日」と分かり、なんと服部正と全く同じ誕生日でした。天国で服部正とまた楽しく会話しているのではないかと存じます。

ラジオ体操第一が出来るまで

もうすぐ子供にとっては楽しみな夏休みです。夏休みと言えば何といっても「ラジオ体操」のスタンプ集め、というのは昔から有名でしたね。

ところで現在の「ラジオ体操第一」というのは何代目だと思われますか?
実は「三代目」なのです。
初代は昭和3年(1928年)11月にNHKにより東京でまず放送され、そして翌年全国放送となったそうです。この時の音楽は「福井直秋」という作曲家が作った曲でした。
とはいうものの、そもそも「ラジオ体操」のために作ったものでなく「可愛い歌手」というピアノ曲が「体操の伴奏として相応しい」という評価を得て採用されたとの記事があり、今では「可愛い歌手」という個別の曲としてではなく「初代ラジオ体操第一」として残っています。福井直秋氏は作曲家で武蔵野音大の創設者とされており、服部正以上に全国の学校の校歌等を作曲されているようです。

通算17~8年間続いたこのラジオ体操第一もその後太平洋戦争に敗北したことで終止符を打ちました。米軍GHQが「軍国主義的号令付の体操」をラジオで放送することに難色を示したことから、「もっとリズミカルな優美な体操に切り替えて長い歴史を持つこの放送を継続させる方針」を当時の逓信省、文部省、厚生省等が立て、そして第2代の「ラジオ体操第一」を作り1946年4月から放送されました。その時の曲が服部正の作品であり、何と当時のガリ版刷り譜面が遺品の中に残っていました。

ところが当時はまだ敗戦直後で人心も安定せず食糧難も相まって国民が体操する状況になく、体操自体も難しいとの不評で翌年の1947年8月に放送が取りやめになってしまいました。第2代の寿命はたった1年と4か月でした。

そして1950年頃に日本国内の生活も安定してきて「ラジオ体操の復活」を望む声がまた盛り上がってきたので、この2代目の失敗を反省しながら作られたのが3代目の「ラジオ体操第一」です。この曲も引き続き服部正が担当し、1951年5月に放送開始となってから実に今日まで66年毎日放送は続いています。恐らくまだこのまましばらくは続くのではないでしょうか。

ところでこの歴史をしっかりとどめているCDがあり、小生の自宅の近隣の図書館で発見しました。

このCDはラジオ体操75周年で作られたという事なので、恐らく2003年頃に発売されたものではないかと思われます。
早速この「第2代」を譜面を見ながら聞いてみましたが、音楽的にはしっかり完成されている曲でした。冒頭はマーチ風ですが途中からワルツになり、このワルツが実にヨハン・シュトラウスっぽい音楽で、聴いていても楽しくなってしまいそうな曲です。確かに戦後直後にこんな曲をやっても体操する気にならなかったかもしれませんが、もう少し後であれば十分採用されていた可能性があります。

今でも学校だけでなく会社や工事現場でも漫然と流れているこの「ラジオ体操第一」も、誕生までこれだけの紆余曲折があったのかと思うと歴史の重みを感じてしまいます。

今回の内容はこのCDのブックレットと先日お邪魔した「NHK放送博物館」の放送年鑑等からの貴重な情報を使わせて頂きました。ありがとうございました。

追伸
この曲についてのお問合せ(2次使用等)が当館に来ることもございますが、この曲の著作権はすべて「かんぽ生命」が所持しており、「かんぽ生命」のHPにもこの曲の取り扱いについてのご案内が書かれていますので、気になる方はご覧ください。

 

奥が深い!NHK放送博物館での調査

港区の「虎ノ門ヒルズ」のそばに「NHK放送博物館」があります。そもそもNHKが初めてラジオ放送を開始したのがこの場所であり、本来であれば「NHK放送博物館」のそばに「虎ノ門ヒルズ」がある、と言わなくては失礼にあたるのでは、と思ってしまいます。
服部正は就職キャンセル後から間もない時期にNHKとの接点が芽生え、特に最もNHKで活躍したのは戦後から昭和30年代の約20年間ではないでしょうか。
この放送博物館には資料室もあり、何か服部正にまつわる情報があるかもしれないという事で以前お邪魔し、その際学芸員の方が親切に相談に乗っていただけました。
という事で日を改めてお邪魔しました。
駅で言うと「御成門」が至近と思われ、そこから慈恵医大を横に見ながら歩いていきます。放送博物館は「愛宕山」の山頂にあるとの事で覚悟して行ったのですが、幸い御成門側から来るとエレベータでの来館案内になっており、虎ノ門方面からは距離もあり坂も上がらなければならないので、ちょっと得をした気分です。
トンネルの横の何となく密かな場所にそのエレベータがありました。

早速乗るとゆっくりと上昇、「2階に着きました」とのアナウンスが流れますが高低差は2階どころではなく5~6階分はあるのではないでしょうか。

そして入館。(無料!) 目指す資料室は4階にあります。

NHK放送博物館入館ガイドマップ

博物館自体は9:30開館ですが資料室は10:00開室なので、早めについたので3階のヒストリーゾーンを一回り。「ラジオ・アーカイブ」というコーナーがあり、そこで「ヤン坊・ニン坊・トン坊」を選ぶとディスプレーに収録現場の写真が映し出され、奥で指揮棒を持った服部正が立っていました。(写真撮影不可のため、ぜひ来館されたらご覧下さい。)気を良くして資料室に伺いました。

前回にご相談した事に対するお返事をメールでも頂き、また司書の方も内容をご了解いただいていたのでスムーズに資料の閲覧が出来ました。

年鑑や年史のような記録物が主でしたが、びっくりしたのは「人名」の索引が用意されており、大量の資料でも検索が非常に容易に出来ました。
やはり相当な資料が保管されており、こちらで持っている譜面以外の曲の存在がいろいろ発見されたり、初めて見るスナップ写真等もあったりして大きな成果でした。
こちらから用意していた番組はほとんどが昭和30年代前半であり、この頃が服部正が最ものっていた時期と思われます。
また「音楽夢くらべ」という番組にもレギュラー出演し、その番組が後に「あなたのメロディー」という番組に変っていきながらもしばらくレギュラー審査員を続けてやっていた事も分かりました。

これは1回では済みそうに無く、とりあえず今回は年史等の情報をノートに書き写し、再度こちら側も準備して来訪することにしました。やはり奥が深いです。

この情報をもう少し整理して別のページでいずれ披露していこうと思っております。

今回の訪問にあたってご支援いただきました学芸員の方、司書の皆様、ありがとうございました。引き続きよろしくお願いいたします。

P.S
この放送博物館の横に「愛宕神社」があり、その脇に有名な「出世の石段」があります。以前会社の業務で幹部と近くに来た時に連れられて来訪したのですが、出世の石段を上がらずに横の坂道経由でお参りし、帰りに石段を降りるというルートになってしまいました。(それが我が人生にとって良かったのかどうかはまだ判断できていませんが、、、)
高所恐怖症の方は「降りる」ルートは控えた方が良いかもしれません。