校歌・社歌のご紹介(11)

社歌の紹介① 鉄鋼大手会社

今まで校歌を中心にご紹介してきましたこのシリーズ、東京都を残しておりますが、実は新型コロナウィルス感染の影響で学校訪問をストップしている関係上、一旦「社歌」の方に舵を切りたいと思います。
今回はそれこそ日本の戦後復興で最大の立役者になった鉄鋼会社の社歌を3社ご紹介します。
とはいってもそのうち2社は合併の波に巻き込まれ、恐らく社歌としては現存はしていないと思います。

まず唯一残っている会社「神戸製鋼所」の社歌です。
残念ながらこの社歌がいつ頃作曲されたかについての情報が、譜面には残っておりません。
譜面の字体や記譜の状況から昭和30年後半から40年代ではないかと想定できます。

神戸製鋼所 社歌の歌詞

この社歌の作詞についても譜面上には何も記載されていませんでした。譜面とともに歌詞の書かれた紙が残されており、ひょっとしたら会社の中で歌詞を公募する等の動きがあったのでしょうか。
実はこの文書、実に興味深い一節があります。
冒頭の(三九四)。
正直何の意味か全く不可解です。パッと思いついたのは、この数字、実は「さくし」と読むのでは、と思ってしまいました。真偽は分かりませんが、もしそうだとしたらなかなか洒落っ気のあるスタッフだと思います。

続いては「住友軽金属工業」です。
この譜面にはしっかり作曲時期が書かれておりました。

昭和38年1月というと、まさに東京オリンピック開催の前の年であり、様々な産業がそれに向かって大きく羽ばたいていた時期です。当然住友軽金属社としてもこの波に乗って業績を大きく伸ばしていきましたが、2013年に古河スカイと合併し「UCAJ社」となりました。
ここでは作詞を社歌、校歌の作詞家として著名な勝承夫先生が担われております。

そして鉄鋼大手の「日本鋼管社」の社歌も服部正が担当していました。

ここにも作曲年月が明記されており、1962年(昭和37年)東京オリンピックの2年前です。日本がどんどん発展していく時期に日本鋼管社も意気を上げようという背景で作られたのではと思います。歌詞も佐伯孝夫先生であり、力が入っています。
この社歌にはピアノ譜の他にオーケストラ譜の自筆譜が残っていました。
よく見るとオーケストラとして欠落している楽器があります。
ホルン、ファゴット、そしてヴィオラ。
想像するに、日本鋼管社が持っている管弦楽団のために作った譜面かもしれず、その時にそのオーケストラにその楽器の団員がいなかったのではとも思われます。(ヴィオラが欠落しているのも、当時のアマオケには時々ありそうな事ですね。)
日本鋼管社は2002年に川崎製鉄社と合併し今はJFEスチール社として活躍しています。

譜面や別添資料からこんな想像しているのも面白い「社歌」のご紹介でした。

戦時中の音楽会を知り、今の日本の音楽家を救おう

2020年4月、今や東京を中心として全国に新型コロナウィルス感染が蔓延しており、全世界も日本以上に大災害となっています。経済活動だけでなく様々な文化活動にも筆舌に尽くしがたい影響が出ており、特に演奏家、さらに音楽組織や組織のもとで働く人にとっては死活問題となっています。

服部正著 広場で楽隊を鳴らそう 出版本

以前ご紹介した服部正の唯一の自叙伝「広場で楽隊を鳴らそう」の記事の中に、戦時中の音楽活動の事がかなり詳しく書かれており、これを読み返していると当時の聴衆と今現在の音楽ファンの心境に非常に類似性を見出しました。
ここに印象的な文書をご紹介します。

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 (昭和)二十年に入ってからの(青響)演奏会は、プログラムもチラシも、一枚も残っていない。十九年暮れにひらいたときのチラシは、石版刷りで、まるで明治時代の印刷のようだし、当日会場でわたしたプログラムはガリ版刷りであった。そして、新聞の三行広告とわずかなポスターが街にはられた程度であるのに、どこから集まるのか、聴衆の数は圧倒的だった。

戦争が末期に近づくにつれ、東京には娯楽と名のつくものはなにひとつなくなった。大劇場はすべて閉鎖され、日劇は風船爆弾という兵器の工場となっていた。映画もラジオも、戦意昂揚ものばかりが上映されていた。青響の音楽会がうけたのは、そのような状況も影響していたに違いないが、何も特別なことをしなくても不思議な程聴衆は集まった。といって、わたくしは、特別、意識的な抵抗感をもって演奏会をひらいているのではなかった。それはただ平時と変わらぬプロを組んだだけである。戦争中であるからといって、音楽が変わるとは思えなかった。聴衆が望んだことは、要するに平時に帰りたいことなのである。わたくし自身も、聴衆と同じようにそのことを望んでいたし、平時の音楽を平時の心で演奏したかったのだ。
(( )内は筆者補筆)
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ここでは敵は「連合軍」ではありますが、現在の敵は「新型コロナウィルス」です。
もちろん当時と政府、環境や国民の意識は全く違うものの、この最後の部分「要するに平時に帰りたいことなのである。わたくし自身も、聴衆と同じようにそのことを望んでいたし、平時の音楽を平時の心で演奏したかったのだ。」というのはまさに今の状況ではないでしょうか。
音楽家はどんどん仕事が無くなり、PRする場も少なくなっています。逆にYouTube等の動画サイトは余りにも投稿が増え、本質をわきまえない見てくれの動画も横行しており、こう言った分野に精通していない人にとっては混乱の真っただ中にいるようにも感じとられます。

せっかく頑張っている音楽家(これはプロもアマチュアも問わず)に対し私としても何とか気分を持ち直してもらい、「平時に戻る」際に再度盛り上げるべく応援していきたいと思っております。

私事で恐縮ですが、やはり某学校の音楽団体の3月の定期演奏会が中止になり、その時最終学年の人にとっては数年間の最後の演奏会を終えることが出来なかった場面に出くわしました。まだ自粛要請が出る前に何人かでアンサンブルと軽食会をしましたが、その誘いをメールで呼びかけた時とても喜んでいただきました。
金銭的な面や具体的な支援策はすぐには出来ないかもしれませんが、まずは声をかけたりメール等で呼びかけたりする事でも音楽家の方は少しでも気持ちが穏やかになると思っております。
是非周囲にそのような方がいらっしゃったら、声をかけてみてはいかがでしょうか。(現在はなかなか「会食」がやりづらいのが残念ですが、、、)

前回ご案内した「コンコルディア」の6月の演奏会は9月に延期になったとご連絡をお受けしました。もう一度気を取り直して頑張っていただきたいと思います。

埋もれた曲「陸をゆく」が演奏会に!

昨年の末頃に「コンコルディア」というマンドリンオーケストラを指揮されている「横澤恒様」からこの資料館の問い合わせ経由でメールをいただきました。そのオーケストラで本年6月に行われる定期演奏会にて「服部正の曲を演奏したい」とのお話で、曲は「陸をゆく」との事でした。
まずこの曲名は聞いたことが無く、当然当館にも譜面は残っておりませんでした。思い起こせば小生が学生時代にKMCの定演で武井守成氏の「空をゆく」という曲をやった事は覚えており、その関係かと思ったところ「大当たり」で、他に大澤壽人氏の「海をゆく」という曲を合わせて行進曲3部作をやられるという事でした。聞くところによるとNHK大阪放送局が 戦時中にの1942年の 海軍記念日にこの3曲の企画、放送がされたという事でした。

先日横澤様のご厚意で練習にお邪魔し、その「陸をゆく」を聴いて参りましたが、曲想、雰囲気とも服部正ならではの特徴が至る所にあり、間違いなく服部正の作品と判断できる素晴らしい演奏をしていただきました。その時に当館に無い譜面のコピーも頂戴致しました。服部正としては比較的きれいな楽譜の書き方でしたが、服部正の直筆と思われる特徴も随所に見受けられます。

服部正「陸をゆく」

服部正としては比較的珍しい「短調の行進曲」ですが、Trioの「長調」の部分も含め軽快で何故か暗くない作品と感じました。
「空」「陸」「海」、そして戦時中 (作曲時期は1942年なので、終戦の3年前です。) の作品となれば、これは当然「空軍」「陸軍」「海軍」を意味していると思われる作品であり、血気盛んな日本軍を鼓舞すべく企画されたものと想像ができます。

過去定演で演奏した武井氏の「空をゆく」は極めて明るくのんびりしたようなイメージもあったので、当時は「セスナ機で大空を飛んできれいな風景を見ているような曲」というような背景を勝手に想像してしまい、戦争コテコテの背景の曲とは思いませんでした。
この定演で「空をゆく」の演奏に際しても指揮をしていた服部正は自身が「陸を行く」を作っていた、というようなことはほとんど口にしておらず、この作品の存在はひょっとしたら慶應関係者で知っている人はほとんどいらっしゃらないかもしれません。

どうも服部正は戦時中にまつわる自身の作品について、戦後完全に封印してしまったのではと思われます。学徒出陣で演奏された「海の組曲」も再演は全くされず、この「陸をゆく」の譜面も慶應関係ではないところから発掘されたとの事でした。

コンコルディア 演奏会ご案内

しかし服部正の作品をこうやって掘り起こしていただき演奏の機会を作っていただいたことは大変光栄であり感謝の念に絶えません。特に出身母体の慶應と関係が薄い組織でのご採用というのは本当に嬉しく、以前ご紹介したB-oneの「斑蝶」に続く実績となりそうです。
その演奏会のパンフレットを頂戴しましたので、こちらに掲載させていただきます。
また日程が近くなりましたらご案内いたします。

横澤様、大変ありがとうございました。

服部正マンドリン作品集、発売・配信開始!

昨日は服部正の誕生日(3月17日)でした。もし生きていたら112歳!亡くなってからちょうど一回り(12年)しました。新潟県に世界男性最高齢者の方がいらっしゃり、その方がつい最近113歳になったそうですが、いずれにせよ日本の男性は長生きになりました。

そんな当日、以前ご紹介した「服部正マンドリン作品集」がCDと音楽配信でサービスを開始いたしました。
青葉マンドリン室内楽団の皆様の熱演ですので是非お聴きいただければと存じます。
主宰者の肝付様からのご厚意でCDを頂戴しました。
戦前の作品から昭和後期の作品までどちらかというと「聴き心地の良い」ナンバーを選曲していただいたと思います。
比較的様々な所で演奏いただいている「海の少女」は通常のマンドリンアンサンブルではなくピアノ伴奏で多少楽想的にも変化があります。

服部正 マンドリン作品集 CD

前回のご案内の通り直接お申込みいただければCDも配信も入手できます。
ここのところ感染症の話題で殺伐とした日々が続いておりますが、ぜひ気分転換の一助としていただければ幸いです。
前回のご案内に記載したパンフレットにお申し込みの詳細が書かれておりますので、ご一読ください。

校歌・社歌のご紹介(10)

地域別校歌・社歌のご紹介(⑩南関東編)

このシリーズもようやく東京周辺になりました。
今回の「南関東編」は「埼玉」「千葉」「神奈川」という東京のベッドタウンにあたる地域のご紹介です。ただ、この地域は本社を置く企業も多い一方で会社そのものが再編、吸収合併、廃業等服部正が活躍していた時代とは大きく経済状況が変貌しており「社歌に結び付く企業」の明確化が難しく、今回は校歌だけに絞ってご紹介します。(実際この地区の社歌の譜面がほとんど残っていなかったことも事実です。)

まず埼玉県には3つの学校の校歌の自筆譜をそれぞれの学校に寄贈して参りました。
久喜市立菖蒲南中学校鷲宮中学校、そして埼玉県立秩父農工科学高校の3校です。それぞれの学校がその地の個性を出して活躍しており、校歌も末永くご愛顧いただいておりました。

千葉県には「佐倉根郷小学校」にお邪魔しました。ここでも校歌を長く愛唱頂いておりましたが、校歌以外に「生徒の歌」という曲も別に作曲しており、縁が深い学校でした。自筆譜寄贈の欄でも記載しましたが、校歌作曲から40年近くたって作られた「生徒の歌」の作曲経緯はいまだに謎です。

神奈川県には「日吉南小学校」があり、「自筆譜寄贈活動」の最初期に訪れた学校として思い出深い学校でした。東急東横線の車窓から見える学校で、私用で電車に乗った時にぜひ伺いたいと思ってこの活動を始めるきっかけとなった学校です。その他には神奈川県立生田高校校歌と慶應義塾高等学校の歌が譜面として残っております。ただ生田高校の譜面は原本でなくコピー譜だけが残っていたので「自筆譜寄贈活動」には該当できず、たまたま高校野球神奈川県大会で試合にお邪魔した時に吹奏楽団の指導で来られていた教員の方とご挨拶だけいたしました。(偶然、試合の相手校は「慶應義塾高等学校」でした!)

当館に残っていた譜面をもとにご紹介いたしました。これらの学校の他にもひょっとしたら何らかの実績があるかもしれませんが、やはりこの地域は学校の数も非常に多いため確認が難しく、校歌そのものの改変もされている可能性もあるため現状では細かなフォローはしておりません。もし何か情報があればお寄せ頂けると幸いです。

次回は東京都になりますが、実はまだお納めしていない自筆譜もいくつかあり、これを2~3月で多少行動しようと思っていた矢先に「新型コロナウィルス」の騒動が起こったため、東京地区のご紹介は別途お時間を頂戴したいと存じます。

校歌・社歌のご紹介(9)

地域別校歌・社歌のご紹介(⑨北関東編)

作曲当時の前橋工業短期大学校歌表紙

このシリーズもいよいよ関東地方に入ってまいりました。
北関東はここでは「茨城」「栃木」「群馬」の3県を指しておりますが、実は栃木県に関する学校、企業、自治体の譜面が残されておりませんでした。服部正自身が避けていた事は一切なく、たまたまご縁が薄かったと思われます。

また群馬県も非常に少なく、以前ご紹介した「前橋工科大学」の大学歌の譜面だけが残されておりました。この大学には一度お邪魔して譜面を寄贈して参りました。
(作曲した当時は前橋工業短期大学と称しており、現在の前橋工科大学に代わってからも校歌の継続使用についてご相談いただいたのがきっかけでお邪魔することになりました。)

茨城県も実は蓋を開けるとあまり広くお付き合いがされていなかったようです。
まず学校でいえば「結城西小学校」で、これは「自筆譜寄贈コーナー」でご紹介いたしました。
同じ結城市に「玉岡幼稚園」というのが過去存在しており、そこの園歌を作りましたが、この幼稚園も今は存在しておりません。

そして茨城県には何といっても「日立製作所」との関係による実績がいくつか残っております。

日立研究所所歌

日立製作所はご承知の通りそもそもの創業が茨城県日立市であり、全国に支社、営業所だけでなく様々な製品を作る工場が点在しております。特に茨城地区には重電、家電、自動車等の様々なジャンルの工場が集中しておりますが、そこの中でも「多賀工場」(常陸多賀駅)の工場歌、「日立研究所」(大甕駅)の所歌を作曲しており、私もお邪魔して譜面を寄贈して参りました。
今でも工場歌は現場では時々使って頂いている事もあり、昔の社員で覚えていただいている方もいらっしゃいます。作曲当時の裏話をご存知の方が残していただいた文書も保管されていました。

海に寄せる3楽章表紙

また日立市に「日立交響楽団」というアマチュアオーケストラがあり、このオーケストラは日立社員だけでなく地元の音楽愛好家も参加して活動している楽団ですが、この楽団のために作られた曲「海に寄せる三楽章」という作品があります。服部正は時々こちらにお邪魔して接点があったようです。この曲は一部マンドリンオーケストラ用にも編曲されており、服部正も比較的愛着があったように思えます。

ところがそれ以外の実績が不明で、「北関東」は地域的にも近いわりには譜面が残っていないことが実態です。もし何かこの地域の作品等があればぜひご紹介いただければ幸いです。

「服部正マンドリン作品集」CD、音楽配信

青葉マンドリン室内楽団による「服部正マンドリン作品集」が今般CD化、およびナクソスミュージックライブラリーから音楽配信されることになりました。
これは青葉マンドリン教室を主宰している肝付兼美氏から先日お話を頂戴し、大変ありがたいお話として今般当館でも積極的にPRする事に致しました。
2020年3月17日に発売される予定で、下記のパンフレットを頂戴いたしました。
(3/17は服部正の誕生日であり、肝付氏の心憎いご配慮に感謝しております!)

           服部正マンドリン作品集のご案内

昨年、一昨年と同楽団にて演奏していただいた服部正の作品を集めたCDであり、私も東京の演奏会にお邪魔しました。選曲も服部正が比較的好んで演奏していた物が中心であり、皆さんの心のこもった演奏にとても感銘を受けた事がつい先日のように思い出されます。
また発売日近辺になりましたら再度ご案内申し上げますが、ぜひお耳に入れていただきたい曲ばかりですので発売の際は何卒よろしくお願いいたします。
上記パンフレットの右下に連絡先等が記載されておりますが、場合によっては当館でもおつなぎ致しますので、お問い合わせ欄からご連絡ください。

また、このメンバーによる演奏会が今年の6月に函館、札幌、東京で予定されています。
これにつきましても日が迫ってまいりましたらご案内させていただきます。

高井戸第三小学校校歌自筆譜寄贈

高井戸という場所は服部正が最初の結婚での新居の土地でした。服部正の自著にはこう記されています。「かねてから、父が老後に田園生活を楽しむ目的で手に入れておいた土地が、東京郊外の杉並区下高井戸にあった。父はその田んぼの中の空地に、ささやかな新居を建ててくれた。28歳の冬である。」文面から換算すると1936年(昭和11年)になります。
今の高井戸は、まず「東京郊外」ではなくど真ん中であり、しかも「田んぼ」らしきものは無く閑静な住宅が並んでいます。その地に高井戸第三小学校はありました。
この学校の校歌は昭和24年(1949年)に作られましたが、なんと「ラジオ体操第一」の作曲よりも2年早い時期でした。その後いろいろなご縁があって昭和61年に同曲のマンドリンオーケストラの伴奏による録音が実現され、恐らくその頃に服部正がこの学校を訪れた記録が残っております。(下の写真は訪れた時の写真)

昭和61年頃高井戸第三小学校前に立つ服部正

私が訪れた際も門の風景がほとんど同じで、ちょうど休み時間で元気な生徒の声が校庭に溢れていました。
校長、副校長にお迎えいただき、いろいろお話を伺うことが出来ました。
この学校が創立されたのが明治34年(1901年)であり、来年がなんと創立120周年記念ということでした。沿革を拝見した限りでは昭和22年に「高井戸第三小学校」と改称されたと記されておりますので、恐らくこの機会に校歌も新たに作成されたのではと想定できます。
学校にはピアノ伴奏の自筆譜が校長室前に飾られており、その譜面は「昭和61年」と書かれていたので訪問した際に再度記譜したものではないかと思われます。当日お持ちしたのはマンドリン合奏用にアレンジした(恐らく録音のもとになった)譜面ですが、その譜面の裏に「ガリ版」刷りの校歌の印刷の紙が張り付けられており、これはたぶん作曲当時の昭和24年頃のものではないかと想像しております。

まずこの校歌の最大のポイントは「作曲」だけでなく「作詞」を服部正が手掛けたことです。しかも戦後直後の一連の校歌として歌詞まで手掛けた例としては最も古いものであり、恐らく一時期暮らしていた「高井戸」の地に対して、ある意味特別な思いを持っていたのかもしれません。
こちらに訪問する時に、服部正が暮らしていたと思われる「高井戸八幡神社」の近辺を歩いてみましたが、きれいな家が各所に立ち並び本当に静かで綺麗な街並みでした。この地の小学校で校歌が70年以上も歌い継がれている事に大変感謝とともに歴史の重みを感じてしまいました。
ご対応いただいた校長様、副校長様に対し御礼と高井戸第三小学校の益々のご発展をお祈り申し上げます。ありがとうございました。

校歌・社歌のご紹介(8)

地域別校歌・社歌のご紹介(⑧甲信越編)

8回目でようやく関東に近づいて参りました。
まず「甲(山梨県)」ですが、ここにはほとんど譜面が残されておりません。唯一存在するのが「富士スバルラインの歌」という富士山五合目まで登る有料道路の会社の歌が印刷物として残っておりました。

富士スバルラインの歌


ご覧の通り「英語訳」まで印刷譜には作っており、コマーシャルで使っていたのか、それとも現地の休憩所等で流していたのかは不明ですが、一応グローバル対応もされているのが興味深いです。この印刷譜もかなり古いものと思われ、開通が1964年と言われていますので恐らくそれに合わせて作られたのではとも推測されます。

「信(長野県)」もやや実績が乏しい状況ですが、菅平中学校、菅平小学校の校歌の譜面が残されておりました。この学校は実に歴史が古く、そもそもは明治24年に学び舎が作られた事に端を発しているとの事がホームページの沿革史に書かれておりました。
校歌については、まず中学校校歌として昭和25年(1950年)に山崎信氏の作詞によって作曲されました。
そして小学校が独立して菅平小学校校歌として昭和42年(1967年)に服部正がなんと作詞まで担当して作られました。

菅平小・中学校 校歌(印刷譜)
菅平小学校校歌直筆譜


菅平はスキー場で有名ですが、ここは一方で夏季は各大学のラグビーをはじめとする各種クラブの合宿地としてもよく使われていました。実は服部正の母校である慶応義塾マンドリンクラブも古くから必ず夏季はこの地で合宿をしており、服部正も毎年欠かさずにここを訪れておりました。服部正もOBも「スガダイラ」と呼ばずに「カンペイ」と音読みにしてこの合宿のことを呼んでおりました。恐らくその縁がこの学校の校歌誕生につながったのではと思われます。
現在のKMCの合宿はこの地を使われていないようですが、中年以上のOB・OGは恐らく懐かしい思い出が残っていると思われます。

新潟女子高校校歌

最後の「越(新潟県)」は前回の京都と同じく、多少異色な実績が残っております。

まず「新潟女子高校」の校歌の譜面が残されておりました。
この高校は1974年に男女共学化となり「新潟江南高校」に変更、校歌も新たに作成されたためここにご紹介する校歌は廃止されました。
作曲年代は特に記録が残っておりませんが、青焼き用のトレーシングペーパーの五線紙に書いてあるので昭和30年代の中ごろかと想定できます。

新潟で国体が開かれたときに作られた歌も実は服部正の作曲によるものでした。
この国体は1964年に行われたのですが、あの「東京オリンピック開催」の年で例年と違う日程になっただけでなく、オリンピックムードで相当盛り上がったとの事です。ただその年の6月に新潟大地震が起こったため夏季の大会は中止になったと記録されております。

新潟国体の歌レコードカバー
新潟国体の歌

面白いことに、この国体の歌も前掲の新潟女子高校の校歌も歌詞が「サトウハチロー先生」であり、作曲年代もそれほど差がなさそうなので何かのご縁があったのかもしれません。

そして新潟の極めつけがもう一つあります。
何といっても新潟と言えば「越山会」という田中角栄氏の政治団体が大変有名でしたが、なんとこの「越山会の歌」をどういう経緯なのか「服部正」が作曲していました!

越山会は昭和28年(1953年)に発足されたと記録されていますが、この曲は昭和37年(1962年)に作曲されており、田中角栄氏が池田隼人政権の大蔵大臣に初めて抜擢された年でした。
もうこの越山会自体は解散されていますが、稀に著作権利用実績にこの曲が登場することがありました。ネットで調べてみると、当時テイチク社で発売されていたこの曲が含まれていたレコードがオークションサイトで載っていました!。ということはまだ聞く方、歌う方がいらっしゃるのかもしれません。ちなみにこのレコードは三波春夫氏が歌で、一緒に「田中音頭」「山に歌えば」という曲とカップリングされているようでした。「田中音頭」ちょっと聞いてみたいですね、、、。

校歌・社歌のご紹介(7)

地域別校歌・社歌のご紹介(⑦近畿・京滋編)

関西地方でも京都・滋賀という場所は「京・近江」という歴史の古い町並みですが、 この地域にも 服部正の作品としていくつか譜面が残されておりました。

まず滋賀県には現在(2020年2月)NHKで連続ドラマにて放映中の「スカーレット」の舞台となる「信楽」地区に2つの譜面が残されておりました。
一つはまさに「信楽町の歌」、そして「信楽中学校の校歌」です。
信楽町は今自治体的には「甲賀市」に所属しており、この町歌がどのような扱いになっているかは不明ですが、関西地区の自治体の歌としての服部正の作品は非常に珍しく、これがどのような経緯で作曲されたかがぜひ知りたいと思います。

一方信楽中学校については旧字体の「紫香楽」という名前で印刷譜が残っておりました。ホームページで確認したところ「旧字体」から「新しい字」の信楽中学校となった今でもまだこの校歌は存続しており、非常にありがたい限りです。
信楽町、信楽中、いずれも昭和30年代前半に作曲されたものと思われます。
(信楽町の歌は昭和33年)
祖先が「伊賀の百姓」と思われている服部正が「甲賀」の主要都市と学校の歌を作っているのも面白いお話ですね。

他にも東近江市にある「五箇荘小学校」の校歌の譜面も青焼きコピーとして存在しておりました。
五箇荘という場所は琵琶湖の東岸で彦根から京都に行く途中にある町であり、東海道新幹線に乗ると米原を出てほどなくすると琵琶湖側にローカル線の線路が新幹線と全く平行に走っているのが気付かれる方もいらっしゃると思いますが、その鉄道(近江鉄道)に沿ったところにある地区です。昔から京都と彦根、越前等との交通の要衝の地域なので、人の往来も多く賑わっていたのではないでしょうか。






さて、京都地区には実に意外な譜面が残っておりました。
1つは「京都医科大学」の大学歌でした。
まず譜面を見て驚いたのは、書かれた年が「紀元2600年」という物々しい書き方で、しかも譜面の表題が「縦書き」です。当然五線紙は横に長く伸びますが、それをあえて抗うように縦書きで旧字体で書いております。
この「紀元2600年」は西暦でいうと1940年とされており、まさに太平洋戦争が始まろうとしている時期にあたります。

この学校は創立も明治5年(1872年)と古く、現在でも先進医療の研鑽を積まれている著名な医学大学として活躍していらっしゃいます。いかにも戦前の校歌の譜面で、歴史の重みを感じますね。

そしてさらに驚いたのが「大谷婦人会の歌」です。
最初題名を見ただけだと、どこかの婦人会の歌かと思っておりましたが、実は京都東本願寺を総本山とする真宗大谷派の全国の取りまとめ組織としての婦人会の歌だそうです。まさか寺社仏閣に関する作品とは思っておりませんでした。
「真宗文化センターしんらん交流館」のホームページにもこの婦人会の歌が堂々とアップされておりました!

表紙を見ると昭和24年11月と記載されており、戦後数年経ってからの作品です。恐らく戦後復興の中でこのような寺社としても信者のモチベーション向上策として作ることになったのではと想定されます。

こうやってみると、今回ご紹介したそれぞれの作品が、かなり昭和の前半から中盤にかけての作品で、それぞれがどのような経緯で服部正に依頼が来たのかが大変興味深く感じられます。
ぜひ機会があったら掘り下げてみたいと思います。