戦後GHQ占領の後のNHK番組にて

終戦後アメリカ軍は「軍国主義」だった日本を抜本から「民主主義」に変革させようという一環でGHQ占領下でCIE(民間情報教育局)を設置、様々なジャンルの情報提供について監督権を持って指導を始めたと言われています。
当然NHKもその最右翼となって彼らの指導を受けた訳ですが、ちょうどその頃服部正もNHKとの関係が深く、このNHKを通じてCIE幹部とも接点があった事が著書(広場に楽隊を鳴らそう)に記載してあります。

こういった経緯を経て昭和30年代初頭からNHKは様々な娯楽番組や婦人向け番組、幼児向け番組等、GHQ占領終了後積極的に放送を拡大していきました。
そんな中、服部正はNHKの連続番組(ラジオ、テレビとも)の音楽担当を仰せつかる事が多くなり、その時に作られた譜面もかなりの分量が残されておりました。

昭和30年代前半のNHK番組向け作品

この写真はその一部ですが、これも含めいわゆるシリーズものとして以下の番組をこの僅かな数年間で担当してまいりました。

にんじん(昭和32年~)
遠くから来た男(詳細不明)
青空の仲間(昭和30年~)
おらんだ泥棒(昭和31年~)
ここに鐘は鳴る(昭和33年~)
春を待つ峠(詳細不明)
相棒道中(昭和31年~)
アンデルセン物語(昭和33年~、「婦人の時間」の一コマ)
エッサラ母さんホイ坊や(詳細不明)
島と私と娘たち(詳細不明)

勿論これだけではなく小さな連続番組もいくつかありましたが、ここに「向う三軒両隣」「お話出てこい」「ヤン坊・ニン坊・トン坊」「バス通り裏」といったNHKでの服部正のメイン番組が同じ年代で動いていた訳であり、当時NHKのスタジオがあった内幸町との行き来が大変であったと著書にも記載されていました。
この頃になればようやく「録音技術」もある程度のレベルまで向上してきたので、ラジオ番組でも「生放送」というしばりは少なくなりましたが、まさに当時は毎日こういった番組の音楽を絶え間なく作曲していたので、「早書き」のレッテルを貼られていた服部正としては面目躍如といったところでしょうか。

しかしこういった番組の音楽はほとんど一過性であり、終了した譜面がドサっと服部正の元に戻される訳ですが、服部正も捨てるに捨てきれず結局遺品として残ってしまいました。正直このさき、こういった譜面の扱いをどうしていくか館長としても悩ましいといったところが本音です、、、。

南極観測隊の歌(昭和基地開設60周年にて)

60年前の今日(1月29日)南極大陸に日本の昭和基地が開設され、本日現地や関係の部署でセレモニーが開催されているようです。
実は以前譜面整理していたところ「南極観測隊の歌」というのが出てきました。
その時はそれほど印象に残っていなかったのですが、今日そのセレモニーのニュースがテレビで流れていたので思い出し、早速譜面を再確認しました。
比較的きれいな状態で残っていましたが、何とその最終ページに当時の新聞のこの曲に関する記事が貼り付けられていました。

どうもこの歌は当時朝日新聞社が歌詞を公募し、選ばれた歌詞に服部正が曲をつけた、という事のようです。
その新聞記事を一応拡大してみました。

この歌をネットで検索してみると、国立国会図書館に音源としても保管されているようです。その音源の録音は1956年11月と書いてあり、ちょうど昭和基地開設の2か月前なので間違いなくこの南極観測隊のために書かれたようです。作詞の酒井智恵子氏は恐らく一般の方であり、作詞家の勝承夫氏が補作されているようです。
多分この新聞も60年前の物であり、譜面の紙質の違いが分かるようにかなり変色していることが分かりますが、しっかりと記事内容は読み取れます。

このような記念の日にこういった記事を投稿出来た事は大変良かったと自分で勝手に喜んでおります。

服部正 作品ページの改善

譜面のご紹介ページを改善致しました。
従来はメニューから枝分かれしておりましたが、作品が多くなってくると選択リストが長蛇になりクリックしにくくなってきたため、「一般曲(戦前・戦中編)」「マンドリン(戦前・戦中編)」「戦後編」のそれぞれのページから該当曲へのリンクを貼るように致しました。
多少は見やすくなったのでは、と勝手に思っています。(?!)

同時にMIDIを使った音源も披露開始しました。
こちらはそのページにも記載した通り、手間がかかるので地道に少しずつご披露してまいります。

 

消滅してしまった会社の社歌、、、

新年早々におめでたくないお話をするのも、とは思いますがお付き合いください。

実は服部正は様々な会社・企業・組織から社歌、組織の歌等をかなり依頼されていました。
現在当資料館に残っている譜面だけでも120曲を超えており、今でもご愛顧頂いている企業も多く残っております。
その一方で企業そのものの存在が無くなってしまった物も少なくありません。中でも栄枯盛衰が激しい金融機関については、一時期飛ぶ鳥を落とす勢いで会社モラルの高揚のために作られた社歌を持ちながら「合併」「吸収」「破産」といった形で消えていった企業が目立ちます。
ここに紹介する譜面はその一例です。

「大和銀行」「扶桑相互銀行」、「玉塚證券」「江口證券」の社歌の譜面

大和銀行はりそなグループ、扶桑相互銀行は山陰合同銀行に吸収され、玉塚證券は新日本証券から新光証券、そして現在はみずほ証券というように、そもそもの証券会社がどうだったのかが全く分かりにくくなってしまっています。江口證券に至っては三洋証券に吸収合併されながら、三洋証券そのものが破綻し破産してしまいました。
ほとんどがバブル崩壊の影響です。

こういった社歌の譜面はお届けする事も出来ず、当資料館の譜面袋の中でただじっとしているだけです。せめてこの場だけでも陽の目を浴びられるようにした次第です。
こうやってみると、現在も服部正の作った社歌等をご愛顧頂いている企業に対しては本当に感謝の気持ちがいっぱいです。ありがとうございました。

 

 

新年のご挨拶、予告編(?!)

皆様、あけましておめでとうございます。

おかげ様で当HP来訪者も地道に伸びており、このHPをきっかけにして様々な出会いが生れました。
今年も様々な角度から「服部正」のご紹介をして参ります。
まず「作品の紹介=直筆譜のアップ」、そして「直筆譜の寄贈報告」、それから「服部正のエピソード」等を少しずつご紹介していきます。

年末にHPで出会った関係で当館所有の譜面の「そもそも」が明確になりました。
いずれその経緯を含めご紹介いたしますが、まず何よりもびっくりしたのは作曲を担当した短い漫画(今でいえばアニメ)が第二次大戦のさなかに作られていた事です。その内容も子供の「情操教育」的なストーリーであり、かたや日本国存亡をかけ戦っている若者がいながらこんなディズニー映画ばりの、しかもこれだけ明確なキャラクターのアニメを作っていたという事は信じられませんでした。

その動画名は「アリチャン」と「アヒル陸戦隊」です。

ここには動画提供サイトからワンカットをご紹介します。

上が「アリチャン」、下が「アヒル陸戦隊」です。

その関係先のミッションが一般に明確になった時点で当館の作品紹介にアップさせて頂こうと思っております。

皆様、本年も宜しくお願いいたします。

今年1年ありがとうございました。

今年も残すところ後数日です。
本年1年間お付き合い頂き誠にありがとうございました。

今年はお蔭様で大変充実した年を過ごすことが出来ました。

まず新年いきなり「黒柳徹子のコドモノクニ」での「服部正編」の収録・放映、そして7月には服部正の作品を中心とした慶応義塾マンドリンクラブのOBオーケストラの演奏会、様々な学校や企業等訪問による校歌直筆譜贈呈でのエピソード。
そこには新たな出会いと発見が必ずありました。それらは何物にも代えがたい貴重な物となりました。

実はこの年末にも新たな動きが始まりそうなお話もあり、これについては先方の動きを見ながらご紹介してまいりますが、それなりにご覧頂いている方がいらっしゃる事に大変喜びと責任を感じております。

来年も地道にこういった活動を続けていくと共に、出会いから始まった様々なつながりを大切にしながら、さらに拡大できればと思っております。

皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。

 

服部正の休日・・・(8ミリ編)

今年の4月に「服部正の休日」という題で野球のお話を記載しました。
服部正自身は音楽以外に本当に趣味らしい趣味が無く、パチンコも賭け事(麻雀・競馬等)も全くしませんでした。将棋は多少やりましたが、特に相手を探して外出するような事もなく、また自動車の運転免許も持たないためドライブとは無縁でした。
そんな中で唯一好きだったのは8ミリの撮影でした。
当時からすると結構高かった機械を持ち、様々な所に演奏旅行や家族旅行に行った時に色々撮っていたようです。
自宅にも結構しっかりした8ミリ投影機を持ち、カメラ店で現像出来た8ミリテープを映画館のように部屋を暗くしてスクリーンに映して家族で見た記憶はかすかに残っています。その頃の8ミリは音声は無いので、無声映画を見ているような雰囲気でした。

遺品としての撮影されたフィルムも多少残っていたのですが、何しろ今この8ミリを投影する機械がなかなか入手できず、先般企業のサービスでDVD化して頂けることが分かったので、試しに1~2本やってみました。
テープリールに「〇〇旅行」と無造作に書いてあるものは避けて、ひょっとしたら服部正の仕事中の映像でもあるかと期待できる無記名のテープを企業に出しましたが、内容はやっぱり家族の撮影であり、今お子さんをお持ちのご両親が撮るような育児の記録的なものが殆どでした。
確かに考えてみれば「撮る事」が趣味の場合は自分が被写体になることはまずあり得ないので、これは「服部正としての画像遺産」にはなりませんね。
そのうち家族で旅行に行く事もほぼなくなった頃に、この8ミリ撮影機も陽の目を見る事はなくなりました。
下の写真は昭和30年代前半に慶応義塾マンドリンクラブの夏合宿で長野県の菅平に行った時に服部正が8ミリ撮影をしようとした時のものと思われ、多分マンドリンクラブ員が写真撮影して頂いた物だと思います。
(何故、昭和30年代前半と分かるのか?横に立っている子供は恐らく小生であり、逆算した結果です!)

 

服部正と映画音楽

服部正が本格的に映画音楽に手をつけ始めたのは昭和11年(1936年)、トーキー映画のバックミュージックの担当をしてからと自著には記されています。当時は映像は先に出来て、それに合わせて音楽を作る、という段取りだったらしく、少しでも早く上映したいがため作曲家には非常に厳しい納期を強いられていました。学生時代から早書きだった服部正も、そこでさらに磨きがかかったようです。
そして映画というものが日本に徐々に普及してきた事により服部正の映画関係の仕事も増えていきました。恐らく大小合わせて100は下らないだろうと思われます。
(たまたま「MovieWalker」という映画関連のポータルサイトがあり、そこで作曲家としての検索で服部正の作品群が出ていますので、ぜひご覧になってみてください。このサイトは1946年以降のデータしか載っておらず、それでも52作品ありました。)

やはり映画の話で語らずには出来ないのが巨匠「黒澤明」監督の作品でしょう。
歌舞伎の「勧進帳」をテーマにしたちょっとおどけた映画「虎の尾を踏む男たち」という映画で黒澤監督と初めてコラボレーション、この映画が当時としてはかなり当たった事もあり黒澤監督は次作も、という事でかの有名な「原節子」主演の「わが青春に悔いなし」という作品の音楽監督に推挙されました。
ところが、ここで黒澤監督のポリシーが基本的に服部正の考えと一致しない事が表面化してきたようであり、その次の作の「素晴らしき日曜日」で彼との作品は終わりになってしまいました。
黒澤監督は服部正よりも2歳若く、一緒に仕事をした時代は30代後半というそれぞれが血気盛んな頃でした。恐らく二人とも我が強かったのでは、と思われ妥協の産物ではなく、結局黒澤監督の意向に沿った3作しか服部正が作れなかった結果ではないかと思われます。
全く関係ない話ですが、黒澤氏も服部正も血液型が「B型」であり、上記を思うと「さもありなん」と勝手に思ってしまっています!

映画音楽そのものの譜面は映画会社が殆ど回収してしまったと思われ、遺品の譜面は映画音楽のジャンルは黒澤作品含めほぼ皆無でした。「次郎物語」のセレクションをマンドリン用に作りましたが、それもマンドリン合奏演奏会のために再アレンジした形なので譜面としては残っていますが原曲は存在していません。

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とりあえず、今DVD等で服部正が担当して入手できた物をご紹介します。「次郎物語」はVHSビデオでした。

きちんと残された「失敗作」

ある日譜面を整理していた時、思わず笑ってしまうような譜面が出現しました。
題名も「出来損ないの曲」!
マンドリン合奏のために書かれており、筆跡(譜跡と言った方が良いのか?)を見ると間違いなく服部正の戦後の作品と思われます。
3拍子の短調の曲ですが、ダルセーニョになるまでは順調に筆が進んでいたのでしょうか、万年筆でいつもの通り書いていたようです。
ところがコーダに飛んだところで鉛筆書きのデッサン的な書き方に変わってしまっており、しかもスコアと言いながらメロディーライン程度しか書かれていません。
そして唐突に譜面は終わってしまい、譜面の最下段に「これは失敗作」と明確に書かれた文字が付いていました。
題に書いてある「出来損ないの曲」も鉛筆で後から書かれたようであり、この曲にも様々な謎が潜んでいます。

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しっかり残された「出来損ないの曲」。右ページの最下段に「これは失敗作」と明記

まずいつ頃の作品なのか?譜跡からすると昭和4~50年代ではないかと思われます。
何のために書かれたのか?これは全く不明です。
何故失敗作にもかかわらず題名部に「出来損ないの曲」とか最後部に「これは失敗作」と書き廃棄処分にしなかったのか?ますます不明です。
ひょっとしたら部分的なフレーズはまた別の機会に使えるかもしれない、という事で残したのでは、という推測もできます。
しかし以前記載した「同じ曲の編曲が複数存在」という事実から「以前の譜面を探すよりも自分で再度作った方が早い」という憶測もあるため、この譜面を残しておく必要性がどこまであったのか不思議に思ってしまいます。
ただ、言える事は譜面に限らず「捨てる」という行為はあまり服部正の日常行為では見かけなかったため、誰も捨てずに今日まで残ったと言う方が正しいかもしれません。

とにかく筆が早い服部正、放送局等からの要請にせっせと作編曲を行う中でも、このような試行錯誤の部分もあった、と思わせる何となく人間的な一面ものぞかせる作品でした。

 

服部正の海外活動(3)-慶応義塾マンドリンクラブ海外演奏旅行(豪、マレーシア)

1975年春先に服部正は慶応マンドリンクラブの選抜メンバーで初めてオーストラリアへ演奏旅行に行きました。シドニーのスキナー氏、メルボルンのエバンス氏というそれぞれ現地のマンドリン合奏団のリーダーと連絡を取り合っての訪問でした。今でこそオーストラリアというと海外旅行の定番ですが、当時はまだ高価であった事とコアラ・カンガルー以外のめぼしい観光資源がそれほど日本で紹介されていなかったこともあり、服部正含めほとんどのメンバーが初めてでした。
シドニーに着陸すると現地のテレビ局がお出迎え、早速インタビューという段取りにびっくり。その後お世話になる家族との対面になりました。オーストラリア側もこちらの定番のホームステイでの受け入れは初めてらしく、双方とも最初は緊張気味でしたがすぐに打ち解け「こんなに楽しいとは想像できなかった」と現地の方々もお喜び頂きました。
そして何と有名なオペラハウスが出来て1年半しかたっていない時に、その大きなコンサートホールで演奏する事が出来たのです!。コンクリートの匂いがまだ残っているほど新しいホールでした。
服部正もこのスキナー氏、エバンス氏とのやりとりをかなり頻繁にやった事で演奏旅行全体がつつがなく終える事ができ、帯同した団員も当時の留守番部隊のメンバーから帰国後羨ましがられる一方でした。

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シドニー空港インタビューとオペラハウスでのリハーサル準備の状況

それまで慶応マンドリンクラブの演奏旅行は様々な要因で国内含めある期間行われていませんでしたがこのオーストラリアでの成功をきっかけに国内各地の演奏旅行が復活し、前回ご紹介したアメリカへの複数回の演奏旅行の実現となりました。

その後日本・マレーシア協会の関係で現地訪問の話が持ち上がり、1984年の夏にマレーシア・クアラルンプールへの演奏旅行が実現されました。
ここはさすがにホームステイという段取りは無理だったのでホテルに約1週間近く泊り、演奏会等を開催、当時のマハティール首相も演奏会にご来臨され、かなり国を挙げてのイベントとなりました。
8月の猛暑の時期だったので大変暑かった事と、日本と時差1時間というもののその時差帯の最西端のためいつまでたっても夜が暗くならないのに困惑してしまいましたが、何とか予定のスケジュールを無事終えて帰国できました。服部正は当時76歳という高齢でしたが、この暑さの中でも何食わぬ顔ですべてのイベントをこなしていました。

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マハティール首相来臨のクアラルンプール演奏会

オーストラリアもマレーシアも共に元イギリス領だったため、英語でほとんど通じる事と一番ほっとしたのは自動車が日本と同じ左側通行だったことです。ただマレーシアはイスラム教が広く普及しているためビールを飲むのにかなり苦労しました。
服部正もアメリカ以外の国とのこのような演奏旅行はあまりしたことが無かったものの、いつもと同じ雰囲気でステージで振舞い団員をリードしていました。

服部正の海外活動もこれが最後でした。お疲れ様でした。