服部正の教鞭(国立音楽大学)

服部正は一時期国立(くにたち)音楽大学の教授として教鞭をとっていたことがありました。
考えてみれば一般大学しか出ていない人間が、音楽大学の教授にまでなるというのはなかなか例が無いかもしれません。
残念ながら詳しい大学時代の教鞭状況は聞くに至りませんでしたが、専門は作曲よりも「管弦楽法」だったようです。
その時の教材としての本が、「ウォルター・ピストン」というアメリカの作曲家が著した「管弦楽法」です。
自宅解体の際にあまりにも書籍の類が多くかなり処分してしまいましたが、この本は「クラシックファン」であれば結構面白い内容でそのまま残し拝借してしまいました。
オーケストラの楽器別に古今の作曲家がどのようにその楽器を引き立たせた使い方をしたか、とか具体的に譜面まで載せて説明しており、やはり一般大学を出た私も思わず読み込んでしまいました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

管弦楽法02

ところで、服部正はどんな授業をしていたのでしょうか?
週に1~2回玉川上水までカバンを引っ提げて出かけていきました。時々授業で使う、といってレコードを持っていきましたが、当時は私もそれなりにLPレコードをコレクターとして所蔵していたので、「ストラヴィンスキーの『火の鳥』のレコードあったら貸してくれないか?」とか頼まれた事もありました。(返された時に、「この演奏なかなか良いね」と言われて嬉しくなった事もありました。)勿論ピアノは弾かない(弾けない?)のでレコードを聞かせながら講義をするというイメージだったのでしょう。ここのところは本人もあまり話をせず、想定ですが。
科目自体はいわゆる「単位稼ぎ」が出来る科目として学生からはそこそこ評判は悪くなかったらしく、一度テストの採点をしている所を覗いてしまいましたが(本人が「見るか?」と言って呼ばれたので、、、)落第点は全くと言って無くほとんどがAかBでした。
いわゆる「甘い」先生だったようです。

(テストの採点を覗く等、ある意味非常に由々しき事ですが、もう時効と思ってご勘弁下さい!)

1周年、ありがとうございました

このホームページが立ち上がったのが昨年のゴールデンウィークでした。
1年が経ちましたが、おかげ様で順調に閲覧数が推移しております。
特に今年1月の「BS朝日放送『黒柳徹子のコドモノクニ』」放映後からこのページを訪問して頂いた方が多くなりました。本当にありがとうございました。

これからも少しずつ作品やアイテムのご紹介や、譜面贈呈の記録を紹介してまいりたいと存じます。
最近譜面贈呈の方がちょっと滞っておりますが、やはり小学校等は3月の卒業式、4月の入学式等春はイベントが多いので余計なお手間を取らせるのも申し訳なく思い、現在ちょっとお休みしております。そろそろ活動を始めようと思います。
これからもよろしくお願いいたします。

服部正WEB資料館ロゴ01

服部正とグレース・ノーツ

服部正は若い時代から自ら楽団を組織する事がありました。
古くは「コンセール・ポピュレール(青年日本交響楽団)」、戦後「広場のコンサート」公演のための臨時編成楽団、そして晩年の「グレース・ノーツ」です。

この「グレース・ノーツ」は服部正が国立音楽大学で教鞭をとっていた頃に、音楽大学を卒業する女性の音楽家として働く場所があまりにも少ないことを憂慮し、女性だけのオーケストラを作ろうという事が発端で、当時は「プリマ・ローザ」という名前で発足致しました。

ところが、雇ったマネージャーが楽団の金を使いこみ一旦解散の窮地に追いやられてしまいました。しかし服部正も諦めずに自ら社長となって「日本女子管弦楽団」という有限会社を立ち上げ(私の母が専務取締役)通称「グレース・ノーツ」という名前で再度デビューしました。
メンバーも当初の面々がそのまま続けてくれた人も多く、地道に活動を続けてまいりました。
(「グレース・ノーツ」というのは「装飾音符」という意味です。)

グレースノーツ01

自主公演としての定期演奏会も行ってきましたが、やはり女性のオーケストラという事で様々なイベントでの演奏依頼もしばしば来ておりました。

曲目はライトクラシックを中心に、欧米のミュージカルナンバーや世界の有名ポピュラー曲をレパートリーに組んでおりました。フル編成のオーケストラではないので、ほとんどが服部正やご協力して頂いた作曲家の手による編曲で、レコーディングもかなり積極的に進めていました。2~30年前の録音ながら約15年前頃CD化もされています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

実は近所の図書館にも置いてあることがわかり、ちょっと感動しました。

何と慶応義塾マンドリンクラブとのコラボレーションのレコードも作っていました。
(小生もこの録音に参加したような覚えがありますが、定かではありません、、、)

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

残念ながら晩年服部正が高齢になってから徐々に活動は少なくなり、明確な「解散」という形でなく自然消滅してしまいました。

ライトクラシックを好まれる方々にはそこそこご評価頂き、ご愛顧いただいていたと思っております。
もしどこかで「グレース・ノーツ」という楽団の名前や演奏を耳にしたら是非思いだしてください。

服部正の休日・・・(野球編)

服部正は音楽活動をしている時以外に何をやっているかというと、ただテレビを見ているか散歩しているかという日々を送っていたと思います。
酒もあまり飲まずゴルフもやらず、昔(といっても学生時代)やっていたテニスにしてもラケットすら家に置いていない状況なので、これといったまとまった趣味は無かったようです。

そんな中「野球」については多少なりとも関心は強く、大学時代は早慶戦等はしばしば行っていたという事が古い日記には書いてあり、そこで気持ちが高じて「幻想曲『早慶戦』」なる曲まで作曲してしまいました。(1929年10月慶応義塾マンドリンクラブのために作曲)

幻想曲早慶戦01 幻想曲早慶戦02

私が幼い頃、自宅のそばにある神宮球場に時々プロ野球の試合観戦に連れていってもらいました。
その頃のプロ野球の神宮球場をフランチャイズとしていたのは産経アトムズ(現ヤクルトスワローズ)であり、一時は東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)も神宮を拠点としていました。
もっぱら産経アトムズ戦を見に行っていましたが、大抵行くとアウェーの三塁側内野席に陣取ってました。「なぜ一塁側に行かないのか」との問いかけに、父は「一塁側はうるさいから」というような事を言っていました。確かに地元ファンは応援団も固定的に組織されていましたが、アウェー側は応援団らしきものは当時は無く、いたって静かな客席でした。行った試合は「中日ドラゴンズ」戦と「大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)」戦がほとんどで、巨人戦やタイガース戦は「混むから」と言って避けていたようです。
なのでもっぱら静かに野球を楽しむといった様子だったように覚えています。当然ビールも飲まずに、、、

103-0390_IMG

これは約10年前の神宮球場。当時陣取っていた場所とだいたい同じ位置からの展望。
昔はこんなにきれいに整備されていませんでした。

こんなエピソードも。

依頼されて様々な学校の校歌を作りましたが、今でも甲子園常連の仙台育英高等学校が夏の甲子園で順調に勝ち進み準決勝でも勝利した時に、服部正が初めて応援の電報を打ちに近くの郵便局まで行きました。
ところが翌日の決勝戦で敗れてしまい、母の「余計な事したから負けたんじゃないの?」というぶっきらぼうな一言に父も苦笑いし、フォローもなく次の話題に移っていきました。
大越投手を擁した20年以上前のお話でした。

訃報・・・ダークダックス 喜早哲氏(愛称 ゲタさん)

本日、ニュースでダークダックスの”ゲタさん”こと喜早哲氏が逝去されたとの事を知りました。
謹んでお悔やみ申し上げます。

服部正とダークダックスは切っても切れない縁であり、戦後慶応義塾マンドリンクラブや広場のコンサート等にて何度も御出演頂き、服部正は彼らのために様々な曲を編曲して演奏会に臨んでいました。そのスマートないでたちと綺麗なハーモニーは年配になっても失せるところが無く、まさに「ステージ映え」するグループでした。

下の写真は1958年1月、NHKでの放送録音の楽屋でのショットですが、ダークダックスは全員20歳台中後半、服部正(中央右)はちょうど50歳になる頃の写真です。(中央左は番組関係者の方)
1957年に「ともしび」で歌謡界に登場し1958年の紅白歌合戦に初出演ということなので、まさにデビューほやほやの時代の写真です。

ダークダックス01

マンガさんこと佐々木氏(左から2番目)、パクさんこと高見澤氏(左端)と以前相次いで逝去し今回喜早氏(右から2番目)が亡くなり、ゾウさんこと遠山氏(右端)もさぞかしお悲しみになってらっしゃると拝察いたします。

一度だけ私もKMC演奏会(1975年頃)でダークダックスと共演出来たのですが、練習のときから非常にスマートながら我々学生にも非常に気を遣って頂いた事、そして本番での言うまでもない素晴らしい歌声とサプライズも含めた楽しいやりとりは今でも克明に脳裏に焼き付いています。
特にアンコールで歌った彼らのヒット曲「銀色の道」はステージも会場も最高潮のノリになり、伴奏をさせて頂いた事が本当に至福の時でした。

何か大きな一時代がまた一つ去るような気がしています。
ゾウさん、少しでも長生きして下さい。古き良き時代を語り続けてください。

ひたちなか海浜鉄道乗車記

以前直筆譜をお持ちした時にローカルな鉄道に乗った乗車記もついでにアップしてみましたが、比較的ご覧になっている方が根強く続いているようなので、(と、勝手に解釈して、、、)ちょっと気晴らしに久しぶりにご披露します。

茨城県には日立グループの発祥の地として多くの事業所、工場が点在しています。
譜面をお渡しした常陸多賀、大甕だけでなく、その昔は水戸駅から日立駅までの間のJR常磐線駅の各駅の名前を付けた工場がありました。今は分社化したりして名前が変わったりしていますが、地元のタクシーの年配の運転手さんは旧工場名で呼んだ方がすぐわかるようです。そんな中でも「勝田」駅は駅の西北側に様々な事業所、工場が存在しています。

譜面をお渡してから業務で他の事業所を訪れた後ちょっと時間があったので、勝田駅から太平洋側に出る「ひたちなか海浜鉄道」に乗車してみました。
勝田から終点の阿字ヶ浦まで片道30分程度で行けるのと、首都圏からほどなくこれだけのローカル色豊かな風景もあって、撮り鉄、乗り鉄とも人気の高いローカル線です。

DSC_0016
JR常磐線勝田駅でのひたちなか海浜鉄道の列車
DSC_0019
終着 阿字ヶ浦駅での折り返し列車

この線の沿線ののどかな風景が直前まで仕事をしていたモードを一気に変えるだけの大きなインパクトになり、後日休みの日に早朝からまた訪れてしまいました。(下はその時の撮影)
ひたちなか海浜鉄道はいずれ延伸されるらしく(今月中には延伸ルートが決定されるとの報道もあり?!)、この「阿字ヶ浦駅」もそのうち「終着駅」という肩書が外される日がやって来るとの事です。
興味を持たれた方、今のうちに訪れてはいかがでしょうか?

ひたちなか海浜2012081202

那珂湊駅に入る阿字ヶ浦からの上り列車

服部正とパイプ

服部正はあまりお酒を飲みませんでしたが、喫煙は嗜好していました。
特に「服部正のトレードマーク」と言われているのが「パイプ」です。

自分でも買ったりしていたのですが、仕事仲間の方々が海外へ行った時の服部正へのお土産に外国製のパイプを結構多数頂戴していました。
ここに今手元にある遺品としてのパイプをお見せします。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
当HPの遺品のページのパイプにも追加しました。

この中でも形状が変わったもの、特殊なものをいくつかご披露します。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
牛の顔や木の工芸品的なもの、吸い口までがメタルで出来たもの等

手前左の白いパイプには「T.Hattori」という文字が刻まれている特注品のようです。
過去の写真を見る限りでは40代からパイプを嗜好し始めていたようです。

パイプ03 パイプ04

左は恐らく50代前半、ダークダックスが北欧旅行の際にお土産で買ってきて頂いた物です。
(バックは服部正の自宅の仕事場です。苦手な(!?)ピアノもしっかり鎮座しています。)
右は78歳の時の同窓会の時の写真だそうです。(1984年)元気な時はどこに行っても必ず携行し、ちょっとした待ち時間や談笑の時にはパイプに火を点けて楽しんでいました。

今はタバコは自動販売機かコンビニで買うのがほとんどですが、昭和時代は様々な街角にタバコ屋があり、普通はそこで購入していました。服部正の自宅のすぐそばにも間口2mにも満たないタバコ屋があり、当時としてはタバコだけでなくパイプの葉も売っていました。私が幼い頃おつかいでそのタバコ屋に「いつもの葉っぱ」と言って買いに行かされたこともよくありました。

パイプを吸いながら譜面を書いていたり、移動中にパイプをくゆらせる姿は当時としてはいたって自然な光景でしたが、今の時代パイプを吸っている人を見かける事はほとんどありません。
先日街でパイプを吸いながら歩いている人を見かけて、なつかしく思わず見とれてしまいました。なかなか有人のタバコ屋が見つからない今、葉をどうやって調達しているのか、と余計な心配までしてしまいました。

皆さんももしパイプを吸われている方を見かけたら、ものすごいレアものと思っても良いのではと思います。

「迦楼羅面」について

本HPの「作品(マンドリン)」に「迦楼羅面」を載せました。
(是非そちらもご覧ください!)
そこでも紹介しましたが、この曲は正倉院御物(宝物)である「伎楽面」の中にある「迦楼羅」という役柄の方がかぶる面をモティーフにした作品となっています。
宮内庁・正倉院のHPがあり、そこから宝物検索が出来るページに飛ぶことが出来ますが、当初「迦楼羅面」では全くヒットしませんでした。「伎楽面」と入れなおしたところ70件がヒットし、その中で第63号と第72号が目的の「迦楼羅」面でした。HPの画像を掲載させていただきます。(正倉院さん、失礼します!)

迦樓羅伎楽面0

これが「迦楼羅」の面だそうです。(第72号です)

そもそも「迦楼羅」とは「インドや東南アジア地方でいうガルーダで、古代の神話にでてくる毒蛇を喰う霊鳥である。常に毒蛇などの危険にさらされていた南方の人びとにとっては、このガルーダこそ生命の恩人であり、神格化されるのも当然であろう。」との記載が「e国宝」というHPに記載されていました。

そもそも「伎楽」も飛鳥時代~奈良時代に中国から日本に入ってきた、ある意味「能楽」や「歌舞伎」の前身にあたるようなもので、こんなお面をかぶった方が舞を演ずるというのも非常に神々しいような気がします。

ぜひ本物を見てみたいものですね。

追伸:この「迦楼羅」は「かるら」と読むらしく、KMCではそのまま音読みして「かろらめん」と呼んでいる人が結構いるらしいです。(かくいう小生も間違っていました!!!)

昔の楽譜(スコア)~遺品より

服部正は自分が作曲・編曲した楽譜だけでなく、自分の勉強も含め膨大なスコアを保持していました。(スコアとはオーケストラ音楽の譜面をブックレットにしたようなもので、曲ごとに1冊になっていたりしたものです。)
たまたま私も聞いたり演奏したりするときに大いに参考になったのでかなり生前からお借りしていました。(というよりは勝手に自分の部屋に持っていってしまってました!)
しかしながら、やはり戦前の頃から集めていたスコアも結構存在し、正直紙がボロボロになる寸前のものも散見され、その修繕にも結構手間がかかりました。
ここにお見せするのはチャイコフスキーの管弦楽曲3曲のスコアです。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

左側2冊(序曲1812年、イタリア奇想曲)はドイツのオイレンブルク版で比較的しっかりきれいに残っていますが、右側(スラヴ行進曲)は日本楽譜という出版社の国産品であり、綴じてある部分が非常に重傷で何と「ガムテープ」で補強した、といういい加減な修繕の有様です。
驚くべきことはそのスラヴ行進曲の裏側です。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

価格が何と「90銭」!
昭和15年に発刊されており、よくよく調べてみると当時の貨幣価値からしてみると結構高価だったように思われます。
例えばネット情報によれば「はがき」は2銭(現在52円)、「かけそば」は15銭(現在400円程度)「生ビール1杯」は50銭(現在5~700円程度?)等、物によって必ずしも比較にはしにくいですがだいたい昭和15年の1円が今の1500円~2500円と考えると、このスラヴ行進曲だけでも2000円に匹敵してしまうわけですね。他の2曲は輸入版であり、さらに高いと思われます。
現在「音楽の友」社で出ている同曲のスコアは税抜き1300円なので、価値観に驚くほどの差があるわけでも無さそうですが、当時服部正はこういったスコアを結構買いあさっていたようでした。
考えてみればその頃はテレビもなく「娯楽」らしきものが現在とは全く違う様相を呈していたので、酒をあまり飲まない服部正からしてみればこういった物への投資がやりやすかったのでしょうね。

ある依頼・・・後日談

以前「ある依頼・・・」という題名で投稿を致しました。

幼くして亡くなった子供のためのレコードのお話でしたが、そのお父様とお会いする事が出来ました。
きっかけはこのホームページをご覧頂いたBS朝日放送のスタッフのご尽力で、このお父様を探しあてて頂きました。お父様は首都圏で電気関係の会社のご経営をされているご立派な方でいらっしゃいました。

ここの出会いで新たな事実が分かったのですが、どうもこのレコード作成については服部正の方から切り出したとのことです。
たまたまお子様の一回忌に参列した服部正が、「せっかくならばこのようなことをやってみてはどうか?音楽だけでなく録音等の手配もこちらでセットアップする」と切り出したとの事です。
私が書いた題名の「ある依頼・・・」というのとはちょっと意味合いが違っていたかもしれませんね。

今回お父様とお会いできただけでなく、こういった事が分かった事も大変感慨深いものがございました。

この経緯は先日のBS朝日放送の「黒柳徹子のコドモノクニ」をご覧頂いた方はご存知と思います。

早速お会いした当日この曲の直筆譜面をお父様に贈呈致しました。
お父様、是非益々お元気でご活躍をお祈りしております。ありがとうございました。

僕はまけないぞ01-1 やさしいパパママ01-1